津賀城跡
(予約投稿です)
鹿嶋方面から北浦に沿って北上すると北浦大橋入口を少し過ぎたあたりに「津賀」という場所に出る。
明治の合併で津賀村は大同村となり、その後昭和30年に大野村となった。
この大野村は平成の大合併で鹿嶋市に編入された。
平成の合併の時に、合併事業の一環としてこの地にあった戦国時代の城(津賀城)跡を整備し、立派な公園とした。
敷地は約8.1ha とかなり広い。

北浦沿いの道にでていた看板を目印に曲るとすぐに大きな駐車場が用意されていた。
しかし訪れる人はほとんどおらず、地元のお年寄りが麓に設けられた大きな広場(多目的グランド)でゲートボールをしている位なもの。
また大同西小学校がすぐ近くにあります。

この山の上に城跡と公園があるらしいのだが直接上に登る階段は無い。
上の台地の標高は約30~40mくらい。
綺麗なトイレの先に山を回り込むように道がつくらていた。


この城については何も知らないので、現地に置かれていた城址の説明をそのまま載せます。
「津賀城は北浦に面する台地に築かれた中世の「平山城」である。
西側台地は「城山」と呼ばれる主部がある。城山は平坦で土塁や空掘が良く残っており、二段に廻っている。東側にも土塁や空掘に囲まれた一角がある。
城主については、系図的に不明であるが、大永年間(1521~1528)に津賀大膳、天正年間(1573年~1591年)に津賀大炊介が居たことが「鹿島治乱記」に記されており、津賀大膳は大永4年(1524)、高天原で鹿島氏の宿老松本備前守尚勝と戦いこれを破ったとある。
また、「津賀津福寺過去帳」には、「大安全切居士永禄11年戌辰3月20日、津賀大膳」とある。」
そのまま載せて見たが、この須賀氏についてはあまり良くわからないようだ。
平安時代の津賀大膳と戦国時代の津賀大炊介が親子、祖父孫かどうかも何もわからない。


本丸の西側に展望台があります。

ここから北浦が良く見渡せます。
橋は北浦大橋です。
天気が良ければかなり見晴らしは良さそうだ。
夕日などもきれいに見えるかもしれない。
それにしても誰もいないのはもったいない。
鹿嶋方面から北浦に沿って北上すると北浦大橋入口を少し過ぎたあたりに「津賀」という場所に出る。
明治の合併で津賀村は大同村となり、その後昭和30年に大野村となった。
この大野村は平成の大合併で鹿嶋市に編入された。
平成の合併の時に、合併事業の一環としてこの地にあった戦国時代の城(津賀城)跡を整備し、立派な公園とした。
敷地は約8.1ha とかなり広い。

北浦沿いの道にでていた看板を目印に曲るとすぐに大きな駐車場が用意されていた。
しかし訪れる人はほとんどおらず、地元のお年寄りが麓に設けられた大きな広場(多目的グランド)でゲートボールをしている位なもの。
また大同西小学校がすぐ近くにあります。

この山の上に城跡と公園があるらしいのだが直接上に登る階段は無い。
上の台地の標高は約30~40mくらい。
綺麗なトイレの先に山を回り込むように道がつくらていた。


この城については何も知らないので、現地に置かれていた城址の説明をそのまま載せます。
「津賀城は北浦に面する台地に築かれた中世の「平山城」である。
西側台地は「城山」と呼ばれる主部がある。城山は平坦で土塁や空掘が良く残っており、二段に廻っている。東側にも土塁や空掘に囲まれた一角がある。
城主については、系図的に不明であるが、大永年間(1521~1528)に津賀大膳、天正年間(1573年~1591年)に津賀大炊介が居たことが「鹿島治乱記」に記されており、津賀大膳は大永4年(1524)、高天原で鹿島氏の宿老松本備前守尚勝と戦いこれを破ったとある。
また、「津賀津福寺過去帳」には、「大安全切居士永禄11年戌辰3月20日、津賀大膳」とある。」
そのまま載せて見たが、この須賀氏についてはあまり良くわからないようだ。
平安時代の津賀大膳と戦国時代の津賀大炊介が親子、祖父孫かどうかも何もわからない。


本丸の西側に展望台があります。

ここから北浦が良く見渡せます。
橋は北浦大橋です。
天気が良ければかなり見晴らしは良さそうだ。
夕日などもきれいに見えるかもしれない。
それにしても誰もいないのはもったいない。
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