大福寺-平景清の娘人丸の寺
北浦大橋を渡り、その内陸部の少し南方よりの鹿嶋市棚木というところに「大福寺」という古寺がある。
市のホームページで県指定の十一面観音像があると知って探していってみました。
途中に案内もないため住所を頼りに探しました。

分かりにくい場所でしたが、こんなところにと思うような場所でしたが、ここはとても興味深い寺でした。

古びた山門をくぐると正面に観音堂が見えます。

境内には古びた石像などが置かれています。
真中は庚申塔、その右は猿田彦です。

このような場所に・・・・・ 姿の良い観音堂です。

上のここに置かれている十一面観音坐像の説明は興味深いことが書かれています。
源平合戦で平家の一番の勇者として名をはせた「平景清」の娘「人丸」が景清の守り本尊を背をってここにきて、霊を弔うために堂宇を建てたものだと書かれています。
これは俄かには信じられないが・・・・。



この厨子の中に十一面観音像が保存されているものと思います。

さて、この景清については石岡にも出生の話があり、府中六井の室ヶ井で産湯をつかったとの伝説も存在する。
平家一番の勇者なので各地に伝説話がある。
これも歌舞伎などで話はまとまってしまうのだがどこまでが事実かなどは良くわからない。
この人丸は景清と遊女との娘とされる。
話は能の演目「景清」にでてくる。
「源平の戦が、源氏方の勝利で終わった後のことです。平家方の武将で、勇名を馳せた悪七兵衛景清は、盲目となり、日向国へ流されていました。景清はかつて、尾張国熱田の遊女との間に一人娘、人丸をもうけました。彼女は鎌倉に住んでいたのですが、風の便りに景清が存命していることを知り、お供と共に日向国宮崎へ景清を訪ねます。
ちょうど景清が、落魄した身の上を嘆いているところに、人丸たちがやってきます。従者は「景清を知りませんか」と声をかけますが、景清は悟られまいと、盲目でそんな人は見たこともありませんと他人のふりを押し通します。
人丸はその後、里人に事情を聞き、彼の仲介でようやく対面することができました。そして景清は、人丸の求めに応じ、八島の合戦の様子を聞かせました。源氏方の三保谷四郎と錏(しころ:=兜に密着して垂らされた首を保護するもの)を引っぱって応戦した名勝負の場面です。語り終えた景清は、もう長くは生きられないだろうからと、人丸に帰って自分の跡を弔うように頼み、親子は別れていきました。」
(「the 能.com 」より転載させていただきました)
このような話ですが、各地に色々な話として残されています。
でもここの人丸は十一面観音を携えてきてこれが残されています。
またここには人丸(妙庫比丘尼)の墓も残されています。
もう少し調べて見ても面白そうです。
茨城には平重盛の墓といわれる供養塔のある「小松寺」などもあるのですから、調べてみると面白いことが見つかるかもしれません。
でもこれはまたの機会にしましょう。
九州 福岡県粕屋郡新宮町下府に「人丸神社」があります。
景清の娘が父を尋ねて京からやって来たとされています。
市のホームページで県指定の十一面観音像があると知って探していってみました。
途中に案内もないため住所を頼りに探しました。

分かりにくい場所でしたが、こんなところにと思うような場所でしたが、ここはとても興味深い寺でした。

古びた山門をくぐると正面に観音堂が見えます。

境内には古びた石像などが置かれています。
真中は庚申塔、その右は猿田彦です。

このような場所に・・・・・ 姿の良い観音堂です。

上のここに置かれている十一面観音坐像の説明は興味深いことが書かれています。
源平合戦で平家の一番の勇者として名をはせた「平景清」の娘「人丸」が景清の守り本尊を背をってここにきて、霊を弔うために堂宇を建てたものだと書かれています。
これは俄かには信じられないが・・・・。



この厨子の中に十一面観音像が保存されているものと思います。

さて、この景清については石岡にも出生の話があり、府中六井の室ヶ井で産湯をつかったとの伝説も存在する。
平家一番の勇者なので各地に伝説話がある。
これも歌舞伎などで話はまとまってしまうのだがどこまでが事実かなどは良くわからない。
この人丸は景清と遊女との娘とされる。
話は能の演目「景清」にでてくる。
「源平の戦が、源氏方の勝利で終わった後のことです。平家方の武将で、勇名を馳せた悪七兵衛景清は、盲目となり、日向国へ流されていました。景清はかつて、尾張国熱田の遊女との間に一人娘、人丸をもうけました。彼女は鎌倉に住んでいたのですが、風の便りに景清が存命していることを知り、お供と共に日向国宮崎へ景清を訪ねます。
ちょうど景清が、落魄した身の上を嘆いているところに、人丸たちがやってきます。従者は「景清を知りませんか」と声をかけますが、景清は悟られまいと、盲目でそんな人は見たこともありませんと他人のふりを押し通します。
人丸はその後、里人に事情を聞き、彼の仲介でようやく対面することができました。そして景清は、人丸の求めに応じ、八島の合戦の様子を聞かせました。源氏方の三保谷四郎と錏(しころ:=兜に密着して垂らされた首を保護するもの)を引っぱって応戦した名勝負の場面です。語り終えた景清は、もう長くは生きられないだろうからと、人丸に帰って自分の跡を弔うように頼み、親子は別れていきました。」
(「the 能.com 」より転載させていただきました)
このような話ですが、各地に色々な話として残されています。
でもここの人丸は十一面観音を携えてきてこれが残されています。
またここには人丸(妙庫比丘尼)の墓も残されています。
もう少し調べて見ても面白そうです。
茨城には平重盛の墓といわれる供養塔のある「小松寺」などもあるのですから、調べてみると面白いことが見つかるかもしれません。
でもこれはまたの機会にしましょう。
九州 福岡県粕屋郡新宮町下府に「人丸神社」があります。
景清の娘が父を尋ねて京からやって来たとされています。
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