親鸞小島草庵跡
親鸞が越後に流され、師法然も土佐に流されていたが、共にその罪をゆるされた。
この時、法然は京都に戻ったが、親鸞はここ常陸の国にやってきた。
そして常陸国で最初の住んだのがこの下妻の小島(おじま)である。
建保2年(1214)に越後より妻子を伴って上野国佐貫を経由してこの地に来たと言われている。
親鸞の生涯についてはいまだはっきりしないことが多く、細かな事はほとんど知られていない。
ただ、小島郡司の武弘が親鸞の徳を慕い、この地に草庵を設けて迎えたと言われている。

まわりには何もない。筑波山が見える田園地帯の真中だ。

近くに来れば番地を頼りにすぐにわかるとやってきたが、狭い道を行くため、わからずに出直して今回で3回目だ。
しっかり調べて来ないとダメなことが分かった。
田圃の真中に大きな木が茂った場所がポツンとあっただけです。
入口には専用の駐車場がありますがご覧のように草が生い茂っていました。

親鸞はここには約3年間滞留し、その後の真宗の考えの基を確立し、常陸国への布教の足がかりとなった。

「親鸞聖人御旧跡」碑
すぐ後ろに大きなイチョウの木が聳えています。
この銀杏は、ここから稲田に移った親鸞を偲のび稲田の方に枝を伸ばしていることから、「稲田恋しの銀杏」と名付けられています。

その石碑の横には「三歳御住居」と彫られています。この地に3年いたことからでしょう。

彰如上人参拝記念碑(東本願寺の大谷光演氏のことか?)

石碑の裏手に五輪塔が4基置かれています。
これは、欽明天皇、用明天皇、聖徳太子の墓に、後に親鸞の墓を加えて「四体仏」だそうです。
なお、欽明天皇、用明天皇はそれぞれ聖徳太子の祖父、父にあたります。

現地立て看板の内容(上の写真の石碑とは別です):
市指定史跡 小島草庵跡
親鸞は、その生い立ちから、配流、妻帯、東国移住の動機、小島居住説をはじめ、その生涯についていろいろな論がなされており、親鸞伝の決定版はまだ見られないが、当地には次のような伝承が残されている。
越後流罪と滞留7年の後、親鸞は健保2年(1214)妻子を伴って上野国佐貫を経て、常陸国に入り、最初に居住したのが、ここ小島草庵である。
小島郡司の武弘が親鸞の徳を慕い、この地に草庵を設けて迎えた。
ここに3年間滞留し、越後で果たせなかった真宗念仏の伝道に積極的に乗り出した。
いわばこの草庵(三月寺)こそ真宗開祖の親鸞が関東において真価を発揮した最初の土地である。
親鸞の高弟蓮位坊は当地出身といわれ、子孫は下間氏と称して、鎌倉時代から現代に至るまで、東・西本願寺の坊官を勤めている。

親鸞はここから稲田に移りますが、移る際にここを弟子の「蓮位房」に譲りました。
後にここにはその子孫によって「三月寺」が立てられたと伝わります。
(三月寺の名前の由来は、親鸞がここでの最後三ヶ月間ここに籠っていたことから名付けられたと言われている)
この蓮位房の子孫は下間(しもつま)氏と称して鎌倉時代から現在に至るまで、東本願寺と西本願寺の坊官を務めているそうです。
この時、法然は京都に戻ったが、親鸞はここ常陸の国にやってきた。
そして常陸国で最初の住んだのがこの下妻の小島(おじま)である。
建保2年(1214)に越後より妻子を伴って上野国佐貫を経由してこの地に来たと言われている。
親鸞の生涯についてはいまだはっきりしないことが多く、細かな事はほとんど知られていない。
ただ、小島郡司の武弘が親鸞の徳を慕い、この地に草庵を設けて迎えたと言われている。

まわりには何もない。筑波山が見える田園地帯の真中だ。

近くに来れば番地を頼りにすぐにわかるとやってきたが、狭い道を行くため、わからずに出直して今回で3回目だ。
しっかり調べて来ないとダメなことが分かった。
田圃の真中に大きな木が茂った場所がポツンとあっただけです。
入口には専用の駐車場がありますがご覧のように草が生い茂っていました。

親鸞はここには約3年間滞留し、その後の真宗の考えの基を確立し、常陸国への布教の足がかりとなった。

「親鸞聖人御旧跡」碑
すぐ後ろに大きなイチョウの木が聳えています。
この銀杏は、ここから稲田に移った親鸞を偲のび稲田の方に枝を伸ばしていることから、「稲田恋しの銀杏」と名付けられています。

その石碑の横には「三歳御住居」と彫られています。この地に3年いたことからでしょう。

彰如上人参拝記念碑(東本願寺の大谷光演氏のことか?)

石碑の裏手に五輪塔が4基置かれています。
これは、欽明天皇、用明天皇、聖徳太子の墓に、後に親鸞の墓を加えて「四体仏」だそうです。
なお、欽明天皇、用明天皇はそれぞれ聖徳太子の祖父、父にあたります。

現地立て看板の内容(上の写真の石碑とは別です):
市指定史跡 小島草庵跡
親鸞は、その生い立ちから、配流、妻帯、東国移住の動機、小島居住説をはじめ、その生涯についていろいろな論がなされており、親鸞伝の決定版はまだ見られないが、当地には次のような伝承が残されている。
越後流罪と滞留7年の後、親鸞は健保2年(1214)妻子を伴って上野国佐貫を経て、常陸国に入り、最初に居住したのが、ここ小島草庵である。
小島郡司の武弘が親鸞の徳を慕い、この地に草庵を設けて迎えた。
ここに3年間滞留し、越後で果たせなかった真宗念仏の伝道に積極的に乗り出した。
いわばこの草庵(三月寺)こそ真宗開祖の親鸞が関東において真価を発揮した最初の土地である。
親鸞の高弟蓮位坊は当地出身といわれ、子孫は下間氏と称して、鎌倉時代から現代に至るまで、東・西本願寺の坊官を勤めている。

親鸞はここから稲田に移りますが、移る際にここを弟子の「蓮位房」に譲りました。
後にここにはその子孫によって「三月寺」が立てられたと伝わります。
(三月寺の名前の由来は、親鸞がここでの最後三ヶ月間ここに籠っていたことから名付けられたと言われている)
この蓮位房の子孫は下間(しもつま)氏と称して鎌倉時代から現在に至るまで、東本願寺と西本願寺の坊官を務めているそうです。
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