妙光寺
行方市麻生の潮来寄りにあった「一乗寺」は、「築地妙光寺二十一世の日孝上人を迎えて初祖とした」と書かれていた。
そこで昨日は隣りに建てたと言う羽黒神社(七面大明神)に行った。その足で、この「築地妙光寺」を見て見ることにした。

築地は潮来市にあり大生の少し南側の地域で主要街道も走っていない場所だが、ここは実に不思議な場所だった。
妙光寺は道をグネグネとナビを頼りにたどり着いたが、実に立派な寺であった。

現地の潮来市教育委員会の説明板の内容をそのまま書きだしてみます。
「本圀山妙光寺
この寺は文永2年(1265)、宗祖日蓮大聖人の直弟子、中老僧一乗阿闍梨日門上人の開祖、当時隣村の水原村に居住していた油井但馬守国光、横山遠江守勝光が鎌倉参勤の際、日門上人を招聘し一宇を創立したのが始まりである。即ち本圀山妙光寺と号し、常陸国最初の日蓮宗の古刹である。
その後、正応3年(1290)中道院日正上人によって現在地に移転される。往昔は朱印等があったが、記書焼失のため上地となるなど一時退転の形勢となりましたが、十六世日遙上人の時、代官矢野九郎右衛門、郡奉行萩原庄右衛門、芹澤伊賀守、三木五兵衛等の力により水戸藩から費用を仰いで九間二七間の客殿を建立した。
元禄12年(1699)十九世徳大院日具上人の時、徳川光圀公より費用を下附され四間四面の本堂を造営した。堂内の日蓮大聖人の御尊像も同時に奉納され、また法華三昧堂の正面の額は光圀公自筆の書である。
二十世日孝上人の時、徳川綱條公より祈祷料として玄米五十俵を下附された。現在の本堂は寛永年間(1624~1643)の再建にして、寺宝には日蓮聖人直筆の御本尊並びに御消息断片、日門上人直筆御本尊、徳川光圀の書簡、光圀拝領の蒔絵法衣箱・状箱・硯箱、紺紙金泥法華経開結十巻などがある。・・・・・・・・」

先の説明によればこの本堂は寛永年間(1624~1643)の再建という。
説明も長くて読むのも大変だが、この寺は日蓮宗の常陸国では一番古い寺だそうだ。

本堂から少し上ったところにある「法華三昧堂」

この法華三昧堂の額は光圀直筆だとの説明があった。



この寺は緑も多くなかなか立派な寺であった。
この寺の説明では日孝上人は第二十世となっていた。一条寺には二十一世と書かれていた。
何故このような場所に寺ができたのだろうか。
「築地」という地名にすこしかかわっているような気がする。
もう少し調べて見よう。
そこで昨日は隣りに建てたと言う羽黒神社(七面大明神)に行った。その足で、この「築地妙光寺」を見て見ることにした。

築地は潮来市にあり大生の少し南側の地域で主要街道も走っていない場所だが、ここは実に不思議な場所だった。
妙光寺は道をグネグネとナビを頼りにたどり着いたが、実に立派な寺であった。

現地の潮来市教育委員会の説明板の内容をそのまま書きだしてみます。
「本圀山妙光寺
この寺は文永2年(1265)、宗祖日蓮大聖人の直弟子、中老僧一乗阿闍梨日門上人の開祖、当時隣村の水原村に居住していた油井但馬守国光、横山遠江守勝光が鎌倉参勤の際、日門上人を招聘し一宇を創立したのが始まりである。即ち本圀山妙光寺と号し、常陸国最初の日蓮宗の古刹である。
その後、正応3年(1290)中道院日正上人によって現在地に移転される。往昔は朱印等があったが、記書焼失のため上地となるなど一時退転の形勢となりましたが、十六世日遙上人の時、代官矢野九郎右衛門、郡奉行萩原庄右衛門、芹澤伊賀守、三木五兵衛等の力により水戸藩から費用を仰いで九間二七間の客殿を建立した。
元禄12年(1699)十九世徳大院日具上人の時、徳川光圀公より費用を下附され四間四面の本堂を造営した。堂内の日蓮大聖人の御尊像も同時に奉納され、また法華三昧堂の正面の額は光圀公自筆の書である。
二十世日孝上人の時、徳川綱條公より祈祷料として玄米五十俵を下附された。現在の本堂は寛永年間(1624~1643)の再建にして、寺宝には日蓮聖人直筆の御本尊並びに御消息断片、日門上人直筆御本尊、徳川光圀の書簡、光圀拝領の蒔絵法衣箱・状箱・硯箱、紺紙金泥法華経開結十巻などがある。・・・・・・・・」

先の説明によればこの本堂は寛永年間(1624~1643)の再建という。
説明も長くて読むのも大変だが、この寺は日蓮宗の常陸国では一番古い寺だそうだ。

本堂から少し上ったところにある「法華三昧堂」

この法華三昧堂の額は光圀直筆だとの説明があった。



この寺は緑も多くなかなか立派な寺であった。
この寺の説明では日孝上人は第二十世となっていた。一条寺には二十一世と書かれていた。
何故このような場所に寺ができたのだろうか。
「築地」という地名にすこしかかわっているような気がする。
もう少し調べて見よう。
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