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熱田神社(潮来市築地)

 昨日、日蓮宗の寺として常陸国で最初に建てられたと言う「妙光寺」を紹介しましたが、この寺も水戸光圀の書が残されているなど水戸藩の庇護を受けていたようである。

場所も元鹿島といわれる大生神社から南方へ2kmほどしか離れていない。

この寺から800mほど南に同じ築地地区に「熱田神社」がある。

地図を見ていると道路がこの場所に集中しているようだ。

ついでと思い立ち寄った。

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街道から少し脇に入った場所の少し高くなった場所にあった。
まわりは木々に覆われ古くからあることが分かる。

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鳥居のところに少し変わった表情の狛犬が置かれていた。

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大正9年

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本殿

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拝殿前の狛犬?はどうやら鹿を表わしているようだ。

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「日本武尊、東征の折当地に立ちより、東は鹿島、南向香取、西方遥かに筑波の霊峰を望み、北は北浦に接し展望絶景高燥の地なるを以って戦勝祈願を行ったという。この地にあって尊の命に従い功のあった三十番神を褒め称えた。
村人はその跡を都恵地(築地)と称し祠ありしが、大同元年(806)社殿をつくり日本武尊を祭神とし三十番神を合祀、尊崇した。
延宝3年(1673)水戸藩主・光圀公巡視の折、由来を尋ねられ熱田神社の神号を賜る。」

どうですか? 読む気になりますか。 でも少し面白い記述があります。

まず、
1)ヤマトタケルがこの地でこの辺りに住んでいた部族を退けたので、戦勝を祝って戦功のあった三十の勇者を讃えた。
2)そしてこの地の名前を「都恵地」と名付け、後に「築地」となった。
3)水戸黄門さんがヤマトタケルの戦勝記念の話を聞いて、草薙の剣が奉納されている熱田神宮と同じだと言うことで「熱田神社」と改名した。

簡単にわかりやすく書くとこんな意味でしょうか。

常陸国風土記では潮来については
「建借間命が兵を放って駆逐すると、賊は一斉に小城に逃げ帰って、門を固く閉ぢて立て篭もった。すぐさま建借間命は計略を立て、勇敢な兵士を選んで山の凹所に潜ませ、武器を造って渚に並べ整へ、舟を連ね、筏を編み、衣張りの笠を雲と翻し、旗を虹と靡かせ、天の鳥琴とりごと・天の鳥笛とりぶえは波の音と調べ合はせて潮と流し、杵島き しまぶりの歌を七日七夜歌ひ踊って、遊び楽しんだ。この楽しき歌舞を聞いて、賊どもは、家族も男女も揃って出て来て、浜辺に群れて楽しみ笑った。建借間命は、騎兵に城を封鎖させ、背後から賊を襲って捕らへ、火を放って滅ぼした。痛く討つ言った所が、今の伊多久(板来)の郷であり・・・」
(口訳・常陸国風土記より)

このあたりで地元部族をやっつけたのは「建借間命」であり、この後に水戸から那珂川へと攻め込んでいる。
ヤマトタケルはこの後にやってきたのか?

ヤマトタケルの記述はその後に書かれていて、
「田の里より南に相鹿(あふか)、大生の里がある。昔、倭武の天皇が、相鹿の丘前をかざきの宮に留まられたときに、膳炊屋舎(おほひ ど の)を浦辺に建てて、小舟を繋いで橋として御在所に通はれた。大炊(おほひ)から大生(おほふ)と名付けた。また、倭武の天皇の后の大橘比売(おほたちばなひめ)の命が、大和から降り来て、この地で天皇にお逢ひになったことから、安布賀(あ ふ か)の邑といふ。」

この「倭武の天皇」がヤマトタケルのことで、この地で東京湾で自ら海に入水して亡くなったとされる弟橘媛(おとたちばなひめ)に再会しています。

この築地という地名も考えるとかなり深いものがありそうです。

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さて、この神社の隣りが空地になっていますが、「津知第二小学校跡地」だそうです。

前に潮来の街散策していて二十三夜尊の隣りに「津知村役場跡」を見つけ記事(こちら)を書きましたが、津知=辻 で、港(津)に出る道路の辻という意味だろうとその時書いたことがあります。
その津知村の小学校だったようです。

このような場所は何かの記事をきっかけにでもして出かけない限り、恐らく見ることも知ることもなかっただろうと思います。



潮来 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/09/27 18:59
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