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報佛寺(唯円の寺)(1)

 親鸞ゆかりの寺として大洗の願入寺を紹介しましたが、もう一つ水戸市河和田にある報佛寺も紹介しないといけないと思いいってきました。

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場所は赤塚駅から1.5kmほど南で、偕楽園の3kmほど西側です。

石岡の歴史に詳しい人はこの河和田(かわわだ)というと戦国時代の「河和田城」を思い浮かべるかもしれません。

この報佛寺はこの河和田城があった場所に水戸光圀が移築して整備したようです。
その前は更に南側の国道50号線辺りにあったようです。

いまでもそこには石碑が置かれているようです。

この河和田城の城主河和田城氏は北条多気の大掾(だいじょう)氏が鎌倉御家人でつくばで勢力を持っていた「小田氏」の換言により源頼朝に鎌倉に呼び付けられて失脚させられてしまいました。

その後この水戸にいた多気大掾と同じ常陸平氏一族の吉田氏(馬場に居を構えていたので馬場氏ともいう)に大掾職が引き継がれました。

この吉田大掾氏がここ水戸の水戸城と常陸府中(石岡)の役所との間を行き来して常陸国の官職を行なっていきます。

しかし、愚かなことに常陸府中で行なわれた「青屋祭」に出かけている留守をねらって「江戸氏」が水戸城を占拠してしまいました。

そのためそれからは吉田大掾氏は石岡が本拠地になりました。

この河和田氏は吉田大掾氏の家臣ですが、水戸城と共に江戸氏が支配してしまいます。
もっとも中央から水戸も含めて吉田氏から江戸氏に所有権が移されていたのですが、吉田氏が城に居座って渡さなかったのです。

ですので留守に攻め込まれるのですが、ある程度予想はできたはずです。やはり愚かと言わざるを得ないかもしれません。

この河和田城もかなり広くこの報佛寺から北は河和田小学校や天徳寺辺りまでを含むエリアだったようですので、かなり重要な家臣の一人だったのだと思います。

しかし、この後に入った江戸氏も佐竹氏に敗れ、戦国末期は佐竹氏が支配していました。


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「法喜山泉渓院 法佛寺」
この山門は先の東日本大震災で倒壊してしまったようです。
それを修理して再建したものだと思います。

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これは何の花でしょうか? 葵? 門の左右に木枠で彫刻された物がはめ込まれています。

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山門を入った左側に親鸞像?が置かれています。

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右側の小山の上に鐘楼が置かれています。
このような山門脇の小山は恐らく昔の城の遺構であると思われます。

小山を築いて見張りなどを配備したのでしょう。

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親鸞象の近くの参道わきに「天牌奉安所」という石碑が置かれています。

一般には天皇の位牌が奉納されている場所をさすようです。
むやみやたらにこのような場所を戦争でも侵してはいけないという印だと思います。

この天牌が誰のものかはよく分かりません。

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そのまま正面に本殿が見えますが、本殿前に大きな木が聳えています。
しだれ桜のようです。
春には綺麗に咲くので、この辺りの名物になっているようです。

額田にある真宗の「阿弥陀寺」もしだれ桜が有名でしたが、同じ真宗のこの寺もしだれ桜が有名なのだそうです。

寺や唯円については明日紹介します。


親鸞と茨城 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2015/10/05 18:13
コメント
住職に聞いたら?
花の模様は 大谷派でもちいる
「八葉牡丹」です。河田住職さんにお話を聞くべきです。
勘吉 さま
> 花の模様は 大谷派でもちいる
> 「八葉牡丹」です。河田住職さんにお話を聞くべきです。

説明ありがとうございます。
確かにそうですね。

でも聞くべきですと言う言葉はご宗派に似合いませんね。
お互い顔は見えないのですからなおさらです。
この記事も昨年書いたものですので賞味期限切れです。

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