日講聖人遭難の墓

 千葉県の旧栗源(くりもと)町(現香取市)沢にある道の駅「くりもと」の隣にちょっと変わった史跡が置かれていた。

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「日講聖人遭難の墓」と書かれている。

説明には
「安國院ト号ス 守恵雄後六聖人ノ一人 啓蒙逑者京都於賀氏日習ニ従イ中村壇林等ニ学ビ後ニ野呂壇林ニ学徒ヲ養成ス 幕府ノ土水供養ヲ拒ミ寛文六年(西暦1666年)5月27日日向の國佐土原に配流 仝所ニ寂ス 七十三歳」
と記されている。

中村壇林は多古町にある今の日本寺(記事1記事2)にあった。

野呂壇林は千葉市若葉区の妙興寺にあった。

この野呂壇林で日講は講師をしていたが、「不受不施」の教義のもと江戸幕府からの施し(寺領)を拒んだため、幕府から禁制宗派とされ、壇林は廃檀とされ、日講は日向国(宮崎県)佐土原に流され、島津氏の帰依を受け日向国で布教を続け、現地で没した。

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この真中にたくさんの石板が束ねられておかれている。

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これは日向国で日講が一万部読経を成就したことで、日講の死後弟子の日念などが万部塔を元日講がいたこの地に建てた。
しかし、江戸幕府より不受不施派は禁止宗派とされていたため、通報を受け、この石塔は壊され、三日三晩焼かれて土に埋められた。

明治9年に宗教の自由が認められて、この石板を掘り起こし、ここに「日講聖人遭難の墓」として置かれた。

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江戸時代「不受不施派」は隠れキリシタンのように地下にもぐり続けられていたようだ。

また不受不施派を奉ずる池上本門寺は、身池対論(受不施派の身延山久遠寺と池上本門寺との論争)を経て、久遠寺の傘下に収まったとされる。


匝瑳・多古周辺 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/10/21 20:36
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