下谷貝市村家と天満宮
石岡から県道7号線で上曽峠を越えて真壁町(桜川市)に入り、下館に向かった。
真壁の街を通り過ぎてしばらく行くと県道148号線と交差する。
この旧道側の交差点「下谷貝(しもやがい)」のすぐ近くにこんもりした木々で覆われた場所があった。
近くに車を停めて行って見た。
ブログを始めてから、何でも気になるとすぐに見に行くようになってしまった。
でも何もないことも多いし、後から別な記事からあの場所だったのかなどと記憶が蘇ることもある。
今回はどちらかと言うと何が何だかわからなかったが少し調べていると面白くなってきた場所だ。

県道7号線より北にすこし入ったところの一角に鳥居があった。
「下谷貝天満宮」と書かれていた。
天満宮なので菅原道真を祀る。
この辺りはやはり天満宮が多い。

裏通りの角にこの天満宮があるが、神社の裏手に深い森が続いている。
神社の敷地かと思ったが全く違っていた。
大きな古いお屋敷で、今もここに人が住んでいるようだ。

神社の説明板によれば、天正年間の1580年頃に河内国からこの地に移住してきた市村家が、道明寺天満宮((大阪府藤井寺市)から分祀したものだそうだ。
しかしこの市村家はここで真壁氏の家臣となり、当時真壁氏はすでに佐竹氏一門となっていた。
この佐竹氏が常陸国を統一するが家康から出羽(秋田)への国替を命ぜられ、真壁氏も秋田へ移った。
しかし、家臣は全て連れて行けず、この市村氏はバラバラになったようである。
この下谷貝では、この辺り一帯の城跡を所有し大きな地主として残ったものかもしれない。
しかし、新撰組に「市村 鉄之助」という人物がいて、函館戦争で土方歳三の遺品を預かり、五稜郭を抜け出して政府軍の包囲をかいくぐり日野の土方の親類佐藤家に届けたことが伝わっているが、この市村鉄之助はここ真壁の市村家の分裂の際に美濃大垣藩に移った家柄のようだ。

神社を少し回り込むと木々の間に屋敷の門が見えてくる。

この門は市村家の門で、現在も使われている。
昔はここに城の屋敷があったようだ。

もう一つ藁葺の門が置かれていた。通用門と勝手門?などとわかれているものかもしれない。
何も書かれてものは置かれていない。
とても大きな屋敷だ。
真壁の街を通り過ぎてしばらく行くと県道148号線と交差する。
この旧道側の交差点「下谷貝(しもやがい)」のすぐ近くにこんもりした木々で覆われた場所があった。
近くに車を停めて行って見た。
ブログを始めてから、何でも気になるとすぐに見に行くようになってしまった。
でも何もないことも多いし、後から別な記事からあの場所だったのかなどと記憶が蘇ることもある。
今回はどちらかと言うと何が何だかわからなかったが少し調べていると面白くなってきた場所だ。

県道7号線より北にすこし入ったところの一角に鳥居があった。
「下谷貝天満宮」と書かれていた。
天満宮なので菅原道真を祀る。
この辺りはやはり天満宮が多い。

裏通りの角にこの天満宮があるが、神社の裏手に深い森が続いている。
神社の敷地かと思ったが全く違っていた。
大きな古いお屋敷で、今もここに人が住んでいるようだ。

神社の説明板によれば、天正年間の1580年頃に河内国からこの地に移住してきた市村家が、道明寺天満宮((大阪府藤井寺市)から分祀したものだそうだ。
しかしこの市村家はここで真壁氏の家臣となり、当時真壁氏はすでに佐竹氏一門となっていた。
この佐竹氏が常陸国を統一するが家康から出羽(秋田)への国替を命ぜられ、真壁氏も秋田へ移った。
しかし、家臣は全て連れて行けず、この市村氏はバラバラになったようである。
この下谷貝では、この辺り一帯の城跡を所有し大きな地主として残ったものかもしれない。
しかし、新撰組に「市村 鉄之助」という人物がいて、函館戦争で土方歳三の遺品を預かり、五稜郭を抜け出して政府軍の包囲をかいくぐり日野の土方の親類佐藤家に届けたことが伝わっているが、この市村鉄之助はここ真壁の市村家の分裂の際に美濃大垣藩に移った家柄のようだ。

神社を少し回り込むと木々の間に屋敷の門が見えてくる。

この門は市村家の門で、現在も使われている。
昔はここに城の屋敷があったようだ。

もう一つ藁葺の門が置かれていた。通用門と勝手門?などとわかれているものかもしれない。
何も書かれてものは置かれていない。
とても大きな屋敷だ。
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