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天狗党の墓(鹿嶋)

 鹿島神宮から潮来側に行く時は昔は大船津から舟で渡っていた。

今は国道51号線が新旧2本の神宮橋があるが、この神宮橋の鹿嶋側のたもと辺りがこの大船津になる。

この近くに「天狗党の墓」と書かれた案内看板があり細い道を山の方に入って行った。

突き当りの山をまくように細い道が続いているが、山側にはたくさんの墓石が並んでいる。

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車を手前で停めて歩いて奥の方に進んでみた。
一般の家の墓だが、近くに寺院は見当たらない。

そのまま100m程進んだ奥に看板らしきものが見えた。

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すぐ近くには一般の墓もなくひっそりとした場所だ。

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ここが「天狗党の墓」であるという。

現地の看板の内容は

「元治元年(1864年)大平組と称する天狗党の一隊800人余りが宮中へ屯集した。
この一隊は、幕府追討軍に追われ鹿島に集まったもので、旅館や寺院などに宿陣したが、川股茂七郎以下80人程を殿軍として、大船津から延方へと渡っていった。
この時川股勢と幕府軍との間に砲戦があり、大船津は兵火に焼かれる。
幕府軍は江戸から府中(石岡市)・玉造・鉾田を経て鹿島へ到着し残党を探索した。
捕縛された23人は下生の石橋外で打ち首にされ、大掾辺田(だいじょうべた)の馬捨て場に埋められた。
明治になり斉藤俊 鹿嶋郡初代郡長によって「殉難諸子之墓」が建てられている。」

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何とも悲しい思いがする。
こんな場所に・・・

墓の場所には榎(えのき)の木が植えられ大きく枝を伸ばしていた。

鹿嶋市文化財愛護かるたに「えのきの下に天狗のお墓」とあるという。

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この墓も行って見ると感じるものがあった。
墓があることは知っていたのだがあまりにもリアルな思いがしてくる。

この場所が馬捨て場だったのか?

大掾辺田(だいじょうべた)と地名にあるようだがどういう場所なのか。
常陸大掾(だいじょう)の田圃と言う意味なのか?

辺田(べた)は「へた」と言う呼び方で各地にもある。
規格外や端っこの田と言うくらいの意味か?

前に延方を探索していて天狗党の残影があちらこちらにあった。
延方に逃げずに大船津で隠れていた天狗党の仲間がつかまって処刑。
そして無残にも馬捨て場に埋められた。

この時代の粛清は考えて見るとすさまじい。

未だに敵も味方もこの亡霊に苦しんでいるのかもしれない。


鹿島地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/11/02 21:28
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