芹沢鴨生家?跡

 行方市では「新選組を創った男」とのキャッチフレーズで新選組局長・芹澤鴨を売り出している。

そしてここに芹澤鴨の生家跡があると言うので立ち寄った。

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芹沢鴨は長い間、この芹沢村の豪族であった芹沢外記(貞幹)の三男であり、文政9年(1826年)の生まれで、幼名は玄太であるとされてきた。

行方市の説明ではこの説がまだ使われているようであるが、最近になってこれが間違いではないかと言われるようになった。

芹沢外記の四男で文政7年(1824年)もしくは文政9年(1826年)生れで天狗党に加わり、元治元年(1864年)8月16日、那珂湊で戦死した長谷川庄七という人物がいることが判明したため少し計算が合わなくなった。

また玄太は兵太が正しく、これが芹沢外記の三男であるがこれは芹澤家の当主であったことがあり芹沢鴨とは別人物のようだ。

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また、芹澤鴨は、松井村(現茨城県北茨城市中郷松井)の神官下村祐の婿養子となり、下村嗣次を称したとされる(Wikipediaによる)ため、この芹沢家の三男とは別人物になる。

しかし、下村嗣次が芹澤鴨と名前を変えた経緯はわかっていないようだ。

まあこの辺のことは新選組に詳しい人は多そうなのでここでは芹澤鴨の生まれについては諸説あると言うことでとどめたい。

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現在この芹沢家は無住のようです。落ち葉が積もっておりました。

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芹澤家の入口脇に「手接明神」の碑が置かれていました。

手を切られたカッパが芹澤の殿さまから手を返してもらい、それをもとの体に戻した。
そしてお礼にもらった薬が芹澤家の宝となった。

その薬で医者の家系が続き、今も医者が多い。 
石岡にも芹沢病院があり、この芹沢家の子孫だという。

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玉造 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/11/16 22:08
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