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法眼寺(芹澤家の菩提寺)(1)

 行方市が芹澤鴨の生家と言う芹澤家跡の近くに法眼寺(ほうげんじ)という芹澤家の菩提寺がある。

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この寺は曹洞宗の禅寺で医王山法眼寺。
成りたちはもう少し調べて明日にでも書きたいと思います。

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この不動明王は、もと芹沢氏ゆかりの芹沢山大聖院東福寺の本尊でした。芹沢氏が東福寺の改築を水戸藩に願い出たところ、かつての佐竹氏の太田礼堂(宝源寺)を合併することを条件に、寛文8年(1668年)徳川光圀から許可され、医王山法眼寺として再興し、改めて医王山法眼寺の本尊として安置されました。(現地説明板)

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山門を入ったすぐ左側に『新選組を創った男 芹澤鴨・平間重助』の顕彰碑が置かれている。

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この顕彰碑の説明では「芹澤鴨は玉造町芹澤の出身である。上席郷士芹澤貞幹の三男として生まれ幼名を玄太と言った。15歳の頃、郷校で医学を学んだが尊王攘夷の思想に共鳴して天狗党の前身である天狗組と行動を共にするようになる。その頃の名は下村継次と名乗っていた。」と書かれている。

これにはいくつかおかしなことがありそうだ。
この郷校は小川にあった医学の郷校ではなく潮来の延方郷校だと思う。
そこでは医学は教えていたのか? 疑問である。

この芹澤貞幹の三男の「玄太」とあるが、これも最近この寺の過去帳で芹沢玄太は芹沢兵太の間違いであったことが判明した(Wikipedia)とある。
この三男兵太は文化12年(1815年)から文政6年(1823年)の間に生まれており、慶応4年(1868年)時に芹沢家当主だったとされている。
このためこの兵太は芹澤鴨とは別人とされるようになった。

もう一人の「平間重助」は芹澤鴨と行動を共にし、新選組に入り八木家で刺客に襲われ芹澤鴨は殺されるが、この平間重助は助かる。
その後、郷里芹澤に戻り明治7年に51歳で亡くなったとされる。

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もう一つとなりに新しい顕彰碑「芹澤鴨が愛したお梅の碑」(平成22年)が建てられている。
愛妾お梅は八木家で芹澤鴨と一緒にいて惨殺された。

この地とはかかわりがないが、共に殺されたことを憐れみここに碑を並べて建てられたものと思う。
花が手向けられていた。

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もう少し明日に続きます。

玉造 | コメント(6) | トラックバック(0) | 2015/11/17 21:28
コメント
No title
以前にコメントを残させていただいたたいここです。
息子は三昧塚古墳が好きなので、行方市あたりはよく
走っていますが、いつも「新選組」という看板などは
見かけていましたが、ここ数日にアップしていただいた
記事でどういうものがあるのかがよくわかりました。

息子は多動があるので、いつもゆっくりじっくりは
その場を見ることもできず、こちらのHPは私としては
大変ありがたく、勉強させていただいてますし
行き先選びに一番参考にさせていただいています。

手間をかけ、わかりやすくアップして下さり
(そして時にはかわいらしいお孫さんたちのほほえましい
姿も見せていただき^^)
私などは日々楽しみにするばかりで申し訳ないのですが
どうかご無理のないようにと願っています。

たいここ 様
今晩は。

以前、将門の寺「延命寺」でコメントいただきましたね。
いつもありがとうございます。

あまり芹澤鴨や新選組などあまり詳しくないので少し避けていましたが、
記事もなくなってきましたので先日立ち寄りました。
行って見ると意外に面白く調べたりして時間ばかりかかりまとまりません。
ノンビリやっていきますのでこれからも宜しくお願いします。

> 息子は三昧塚古墳が好きなので、

この古墳も通り沿いで上の登ると見晴らしがよくて気持ち良いですね。
かなり貴重な古墳のようですがあまり注目されていないように思います。


> その場を見ることもできず、こちらのHPは私としては
> 大変ありがたく、勉強させていただいてますし
> 行き先選びに一番参考にさせていただいています。

参考になればうれしいです。
またコメントもお寄せください。
孫としばらくいたのでボケ爺様となってしまいました(笑)

お梅
http://chishikizatsugaku.com/?p=1081
こんにちは、実はお梅の墓というのも全く根拠がなく、怪しいのが実情のようです。京都の人で行方市とは縁がないのに、何故建てられたのだという気にもなってしまいますね。芹沢鴨自身が行方市の出身ではないという説が強まっている現状では尚更でしょう。
平間重助も証拠は天保期の貞幹の家臣団名簿と戸籍だけということで、しかも後者は公表されてはいないようですね。
小島多作 様
コメントありがとうございます。

芹沢鴨もかなり謎が多くなっていますね。
私はあまり新選組に興味はないので、詳しく調べようとも思いませんが、行方市としてはもう少ししっかり調査した方が良いように思います。

紹介されたサイトの記事も今では間違っているとおもゎれる事が結構ありますね。

> 実はお梅の墓というのも全く根拠がなく、怪しいのが実情のようです。

これは墓なのですか? 実際にはどなたが勝手に建てたものではないかと思いますね。

> 芹沢鴨自身が行方市の出身ではないという説が強まっている現状

芹沢鴨の話と(府中)大掾氏の系列である芹沢氏との話は少し分けて考えないといけないようですね。
まあこの話も私の記事も含めて、尾ひれがついて色々にあちこちで間違ったことも書かれているのでしょうね。

こんなブログ記事を書くのも気をつけないといけないのでしょう。

これからも宜しくお願いします。
No title
宜しくお願いします。

お梅の件に関してはちょっと事情がややこしいようで、京都の長圓寺にお梅の墓があるに違いないと断定した研究者がおり、その土を持って帰り、行方市に碑文を建てたという流れのようですね。

貼ったサイトについては記事よりもコメントが参考になると思われます。
小島多作 さま
ご丁寧にありがとうございます。

> お梅の件に関してはちょっと事情がややこしいようで、京都の長圓寺に

まあこのような話はよくあることですのでそのようなものだあろうと考えて、見学したりお参りしたりもします。
歴史的に事実を確かめたいとも思いません。

> 貼ったサイトについては記事よりもコメントが参考になると思われます。

このコメント書かれている方は私の方のブログにも以前(今夏)コメントいただきました。
熱心に研究されているようですね。
「手奪橋」は「てうばいばし」ではなくて本来は「てばいばし」だと言われていました。
「鴨宮」などと言うのも紹介していただきましたので時間がある時にでも探してみます。

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