法眼寺(芹澤家の菩提寺)(2)
芹澤家の菩提寺「法眼寺」の続きです。
昨日時間が無くなり今日に延ばしましたがやはり時間が無くなりました。
難しいことはやはりバタバタしている時には頭に入りません。
少しずつ紐解いて行きましょう。

まずこの寺の入口に旧玉造町が作成した「新選組ゆかりの地」という地図がありました。
①手奪橋の言われ(河童の恩返し)説明板
②芹沢鴨説明板(芹沢鴨生家)
③芹沢城と芹沢旧家説明板
④平間重助説明板

寺の裏側には墓地があります。
これは寺の歴代の住職のものでしょう。

この先の石段を登った高台に芹沢家の墓地があります。

こちらが芹沢家のお墓です。(石段上の左側)

右側には石碑が置かれています。

この正面の碑は「法眼寺開基之碑」
この開基は「芹澤隠岐守平俊幹」となっています。
そして 常陸大掾 多気太郎平義幹 十二代後裔 初代芹澤城主也 文明十七年没 1485年 と書かれています。
その隣に大きめの石碑がありもっと詳しく書かれているようですが字が薄れていたりして読めません。
今回調べたかったのはこの多気大掾とこの芹澤家の関係です。
私の今まで知っているのはつくば市北条にいくとこの多気太郎(常陸大掾)の大きな五輪塔があり、この多気大掾は小田氏の換言で鎌倉の頼朝に失脚させられて所領を没収されたことと、芹澤家がこの多気大掾の親族であると言うことだけです。
そのためこの辺のいきさつをもう少し知りたいと思ったのです。
ここは前に書いた大掾氏の備忘録に追加しておきたいと思いますのでまた明日にでも書きたいと思います。

下に降りたところに平間家の墓地がありましたが、平間重助との関係があるのかどうかはわかりません。

この場所は百里基地(茨城空港)に近い場所であり、時々頭上を爆撃音が響きます。
音のする方を見上げてシャッターを切るとこんなのが写っていました。
行方の寺などを回るとかなりの確率でこの衝撃音を耳にします。
やはりこの飛行ルートの下には住みたくないですね。
昨日時間が無くなり今日に延ばしましたがやはり時間が無くなりました。
難しいことはやはりバタバタしている時には頭に入りません。
少しずつ紐解いて行きましょう。

まずこの寺の入口に旧玉造町が作成した「新選組ゆかりの地」という地図がありました。
①手奪橋の言われ(河童の恩返し)説明板
②芹沢鴨説明板(芹沢鴨生家)
③芹沢城と芹沢旧家説明板
④平間重助説明板

寺の裏側には墓地があります。
これは寺の歴代の住職のものでしょう。

この先の石段を登った高台に芹沢家の墓地があります。

こちらが芹沢家のお墓です。(石段上の左側)

右側には石碑が置かれています。

この正面の碑は「法眼寺開基之碑」
この開基は「芹澤隠岐守平俊幹」となっています。
そして 常陸大掾 多気太郎平義幹 十二代後裔 初代芹澤城主也 文明十七年没 1485年 と書かれています。
その隣に大きめの石碑がありもっと詳しく書かれているようですが字が薄れていたりして読めません。
今回調べたかったのはこの多気大掾とこの芹澤家の関係です。
私の今まで知っているのはつくば市北条にいくとこの多気太郎(常陸大掾)の大きな五輪塔があり、この多気大掾は小田氏の換言で鎌倉の頼朝に失脚させられて所領を没収されたことと、芹澤家がこの多気大掾の親族であると言うことだけです。
そのためこの辺のいきさつをもう少し知りたいと思ったのです。
ここは前に書いた大掾氏の備忘録に追加しておきたいと思いますのでまた明日にでも書きたいと思います。

下に降りたところに平間家の墓地がありましたが、平間重助との関係があるのかどうかはわかりません。

この場所は百里基地(茨城空港)に近い場所であり、時々頭上を爆撃音が響きます。
音のする方を見上げてシャッターを切るとこんなのが写っていました。
行方の寺などを回るとかなりの確率でこの衝撃音を耳にします。
やはりこの飛行ルートの下には住みたくないですね。
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