大掾氏備忘録3
大掾(だいじょう)氏備忘録というタイトルで記事を書いたのは2年前です。(記事はこちら)
芹澤鴨の過去を調べ始めたらこちらの備忘録に追加しておきたい記事が出てきましたのでここに追加しておきます。
さて、前の備忘録の記事
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D、常陸国大掾氏の簡単な流れ
6)しかし、鎌倉幕府が成立し、曽我兄弟の仇討ち事件などで疑心暗鬼になっていた源頼朝に、大掾職が欲しい常陸国守護の八田氏(小田氏)(鎌倉幕府の御家人でもあった)が1193年に「謀反の噂あり」と讒言をします。
これにより鎌倉に呼び出された義幹は大掾職を解かれ失脚し、多気氏は滅びてしまいます。
(ただし、系列の氏族はたくさん残ります。芹沢氏などもその一つです。
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この多気大掾氏のその後に関係しています。
北条の多気山に拠点を置いてこの筑波山西側一帯を支配していた常陸大掾氏(多気大掾)は、1193年八田知家の換言により頼朝から大掾職とその所領を没収されてしまいました。
この多気大掾の最後は(多気)平義幹(よしもと)は北条では多気太郎とよばれています。
この多気大掾がそこまでは平国香をはじめとする桓武平氏系の宗家として継承されてきました。
そして義幹の兄弟は下妻氏、東條氏、真壁氏などとなっていきます。
(下記の記事は武家家伝_芹沢氏(こちら)に寄っています。
この頃の話は正確でないものが多くいろいろな説もありますので一つの説と考えています)
多気太郎こと平義幹は頼朝により失脚させられますが、殺されはしなかったようです。
身柄は駿河国の岡部泰綱に預けられました。
この時、義幹の次男茂幹(しげもと)は幼く、父と一緒にやはり岡部氏のところに預けられました。
しかしその後母親の実家「狩野氏」に引き取られて育てられました。
一方、多気氏からとりあげられた常陸国の大掾職は、同じ常陸平氏一族の吉田氏(馬場氏)に引き継がれました。
これが水戸にいた馬場(吉田)資幹ですが、鎌倉幕府にこの茂幹の謹慎解除を願い出て、これを許され、茂幹は常陸国坂戸(現鉾田市当間?)に居を構えます。
その後吉田大掾氏との姻戚関係により関係を深めますが鎌倉幕府が滅び 足利方と北条方との争いで大掾氏とも別れ、またあちこちを転々としたようです。
系図を載せます。
義幹 - 茂幹 - 兼幹 - 種幹 - 幹文(村岡) - 良幹 - 高幹 - 望幹 - 良忠(芹澤)讃岐守
- 光尊 - 幹兼(土佐守) - 俊幹(讃岐守) - 範幹(土佐守) - 秀幹(土佐守) - 定幹(土佐守)
幹文が住んだ村岡(相模国高座郡村岡郷)は平良文(国香の弟(五男))が住んだところで平良文が村岡五郎と呼ばれていたところだと思います。
しかしこの村岡郷の芹沢に住んだことから芹沢幹文を名乗り始めたようです。
さてこの行方市芹沢城を築いたのは「良忠」で讃岐守でした。
芹沢良忠は府中(石岡)の大掾詮国が死去した後、府中の大掾氏から要請を受けて支援をするために常陸国にやってきた(至徳二年(1385))と言われます。
そして今の行方市の芹沢城を築城し府中大掾を守る役目を担ったようです。
しかし相模国にもこの芹沢氏の子供(光尊)は残り、後に禅秀の乱ではお互いに敵同士になってしまいました。
禅秀方についた良忠も助かったようです。
この先は戦国時代で入り乱れ一つづつ見て行けば理解できるようですが難しいですね。
この辺りはもう少し整理してから自分の言葉で書きたいと思います。
今回は調べた範囲の備忘録として残します。
明日はまた別なことを書きたいと思います。
今日Facebookを開設して見ました。
少しずつこちらもやっていこうと思いますが、何だか何時になっても追われているようでせわしいですね。
芹澤鴨の過去を調べ始めたらこちらの備忘録に追加しておきたい記事が出てきましたのでここに追加しておきます。
さて、前の備忘録の記事
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D、常陸国大掾氏の簡単な流れ
6)しかし、鎌倉幕府が成立し、曽我兄弟の仇討ち事件などで疑心暗鬼になっていた源頼朝に、大掾職が欲しい常陸国守護の八田氏(小田氏)(鎌倉幕府の御家人でもあった)が1193年に「謀反の噂あり」と讒言をします。
これにより鎌倉に呼び出された義幹は大掾職を解かれ失脚し、多気氏は滅びてしまいます。
(ただし、系列の氏族はたくさん残ります。芹沢氏などもその一つです。
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この多気大掾氏のその後に関係しています。
北条の多気山に拠点を置いてこの筑波山西側一帯を支配していた常陸大掾氏(多気大掾)は、1193年八田知家の換言により頼朝から大掾職とその所領を没収されてしまいました。
この多気大掾の最後は(多気)平義幹(よしもと)は北条では多気太郎とよばれています。
この多気大掾がそこまでは平国香をはじめとする桓武平氏系の宗家として継承されてきました。
そして義幹の兄弟は下妻氏、東條氏、真壁氏などとなっていきます。
(下記の記事は武家家伝_芹沢氏(こちら)に寄っています。
この頃の話は正確でないものが多くいろいろな説もありますので一つの説と考えています)
多気太郎こと平義幹は頼朝により失脚させられますが、殺されはしなかったようです。
身柄は駿河国の岡部泰綱に預けられました。
この時、義幹の次男茂幹(しげもと)は幼く、父と一緒にやはり岡部氏のところに預けられました。
しかしその後母親の実家「狩野氏」に引き取られて育てられました。
一方、多気氏からとりあげられた常陸国の大掾職は、同じ常陸平氏一族の吉田氏(馬場氏)に引き継がれました。
これが水戸にいた馬場(吉田)資幹ですが、鎌倉幕府にこの茂幹の謹慎解除を願い出て、これを許され、茂幹は常陸国坂戸(現鉾田市当間?)に居を構えます。
その後吉田大掾氏との姻戚関係により関係を深めますが鎌倉幕府が滅び 足利方と北条方との争いで大掾氏とも別れ、またあちこちを転々としたようです。
系図を載せます。
義幹 - 茂幹 - 兼幹 - 種幹 - 幹文(村岡) - 良幹 - 高幹 - 望幹 - 良忠(芹澤)讃岐守
- 光尊 - 幹兼(土佐守) - 俊幹(讃岐守) - 範幹(土佐守) - 秀幹(土佐守) - 定幹(土佐守)
幹文が住んだ村岡(相模国高座郡村岡郷)は平良文(国香の弟(五男))が住んだところで平良文が村岡五郎と呼ばれていたところだと思います。
しかしこの村岡郷の芹沢に住んだことから芹沢幹文を名乗り始めたようです。
さてこの行方市芹沢城を築いたのは「良忠」で讃岐守でした。
芹沢良忠は府中(石岡)の大掾詮国が死去した後、府中の大掾氏から要請を受けて支援をするために常陸国にやってきた(至徳二年(1385))と言われます。
そして今の行方市の芹沢城を築城し府中大掾を守る役目を担ったようです。
しかし相模国にもこの芹沢氏の子供(光尊)は残り、後に禅秀の乱ではお互いに敵同士になってしまいました。
禅秀方についた良忠も助かったようです。
この先は戦国時代で入り乱れ一つづつ見て行けば理解できるようですが難しいですね。
この辺りはもう少し整理してから自分の言葉で書きたいと思います。
今回は調べた範囲の備忘録として残します。
明日はまた別なことを書きたいと思います。
今日Facebookを開設して見ました。
少しずつこちらもやっていこうと思いますが、何だか何時になっても追われているようでせわしいですね。
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