小栗の里散策(2)-内外大神宮
小栗の里の一番奥に小山があり小栗城が築かれていました。
その麓にこの「内外大神宮(ないげだいじんぐう)」があります。
この地域は、中世には伊勢神宮領の小栗御厨であった。
小栗の地は、常陸国にあっては平安時代 後期の寛治・康和年間(1087~1104)には伊勢神宮内宮領 となり、小栗保(御厨)として成立した。この保(御厨) を管理したのが、桓武平氏流常陸平氏の小栗氏だといいます。

最初場所がわからず県道を栃木県真岡市側に入り引き返した。
小栗の市街地の通り(旧道風)のほぼ突き当りであった。
カーナビを使っていたが正確に住所を表示しなかった。
私が行く神社や史跡などはあまり正確な住所がなく、カーナビに登録されていないことが多い。
この入口の脇を左に回り込むと小栗城跡の山に登る。

この鳥居をくぐって参道を進みます。

参道も歩くところはコンクリートで固められている。

階段を上ると正面に神社拝殿がある、

そして左側には神楽殿。

ここでは春4月21日と秋11月10日の2回「太々神楽(だいだいかぐら)」が奉納される。
これは県指定無形民俗文化財に指定されています。
現地の説明板によれば
寛延4年(1751)6月山城国(現京都府)愛宕郡三嶋神宮宮司、友田左京及び祇置大政所市大進の両名により時の内外大神宮宮司、小栗山城守宣政に伝授され、その後、伊勢神楽師の指導を受け、十二神楽三十六座を成立させた。更に小栗三喜が舞に工夫をこらし、現在の神楽師に伝承された」
とあります。

拝殿の後ろには玉垣に囲まれた本殿(内宮、外宮)が2つ並んでいます。
内宮は天照大神、外宮は豊受大神を祀り、伊勢神宮と同じになっている。
この本殿は応永年間(1394~1427)に火災により焼失し、延宝7年(1679)10月に再建されたもの。



本殿の裏側にはたくさんの祠が置かれている。

本殿脇には藁葺屋根の社殿が保護屋根をかぶせられて置かれている。
こちらは「遷宮(うつしのみや)」または「御遷殿」といい、1574年建立であるという。


内宮、外宮、遷宮の3つの建物は国の重要y文化財に指定されている。
小栗氏などについてはもう少し調べてからまとめて見たいと思う。
明日は小栗城跡を紹介します。
その麓にこの「内外大神宮(ないげだいじんぐう)」があります。
この地域は、中世には伊勢神宮領の小栗御厨であった。
小栗の地は、常陸国にあっては平安時代 後期の寛治・康和年間(1087~1104)には伊勢神宮内宮領 となり、小栗保(御厨)として成立した。この保(御厨) を管理したのが、桓武平氏流常陸平氏の小栗氏だといいます。

最初場所がわからず県道を栃木県真岡市側に入り引き返した。
小栗の市街地の通り(旧道風)のほぼ突き当りであった。
カーナビを使っていたが正確に住所を表示しなかった。
私が行く神社や史跡などはあまり正確な住所がなく、カーナビに登録されていないことが多い。
この入口の脇を左に回り込むと小栗城跡の山に登る。

この鳥居をくぐって参道を進みます。

参道も歩くところはコンクリートで固められている。

階段を上ると正面に神社拝殿がある、

そして左側には神楽殿。

ここでは春4月21日と秋11月10日の2回「太々神楽(だいだいかぐら)」が奉納される。
これは県指定無形民俗文化財に指定されています。
現地の説明板によれば
寛延4年(1751)6月山城国(現京都府)愛宕郡三嶋神宮宮司、友田左京及び祇置大政所市大進の両名により時の内外大神宮宮司、小栗山城守宣政に伝授され、その後、伊勢神楽師の指導を受け、十二神楽三十六座を成立させた。更に小栗三喜が舞に工夫をこらし、現在の神楽師に伝承された」
とあります。

拝殿の後ろには玉垣に囲まれた本殿(内宮、外宮)が2つ並んでいます。
内宮は天照大神、外宮は豊受大神を祀り、伊勢神宮と同じになっている。
この本殿は応永年間(1394~1427)に火災により焼失し、延宝7年(1679)10月に再建されたもの。



本殿の裏側にはたくさんの祠が置かれている。

本殿脇には藁葺屋根の社殿が保護屋根をかぶせられて置かれている。
こちらは「遷宮(うつしのみや)」または「御遷殿」といい、1574年建立であるという。


内宮、外宮、遷宮の3つの建物は国の重要y文化財に指定されている。
小栗氏などについてはもう少し調べてからまとめて見たいと思う。
明日は小栗城跡を紹介します。
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