小栗の里散策(4)-小栗判官伝説について

 小栗判官(はんがん)と照手姫および10勇士の話は、いくつかあり、神奈川県藤沢市や常陸国小栗に伝わっている話もかなり違っているようです。
小栗の里を散策するにはこのお話もある程度理解しておかなければなりません。

まずは、一般的に歌舞伎や浄瑠璃にとりあげられている話(説話が元)を簡単にまとめて見ます。

「平安時代中期、都の大納言は鞍馬の毘沙門天に祈って息子「小栗」をさずかる。この小栗は勇敢な武術も達者な若者に育つが、ある日鞍馬山に詣でる途中でうら若い女に見初められその女を妻とした。
しかしこの女は池の大蛇の化身したものであり、女が懐妊する。これが都のうわさとなり、小栗は大納言の所領していた常陸国に流される。常陸国でも大切に扱われていたが、ある日旅の行商から相模の国の横山という豪族の娘「照手姫」の話を聞き、恋してしまい10人の優れた武将を連れて相模に会いに行く。
これが親の横山にばれて、婿と認めたくない横山はだれもが乗りこなせない暴れ馬を示してこれを乗りこなせたら認めてやろうという。しかし小栗は馬の名手でこれを楽々乗りこなしてしまう。
仕方なく横山は小栗と10人の武将を宴席に誘いだまして毒殺して上野原に埋めてしまう。
照手姫も檻に入れられ相模川に沈められようとしますが、同情した家来が重石を切ったために沈まずに流されてある村君太夫(村長)に助けられ、養女になります。しかし、嫉妬した村長の妻が人買いに売り渡してしまいます。
そして各地を転々として美濃国青墓の万屋という遊女屋に売られます。しかし遊女を拒み下女として3年働いていました。
さて、殺された小栗と10人の武将は死んで閻魔大王に会います。この10人の武将の懸命な小栗の命乞いが閻魔大王に聞き届けられ、小栗は毒でボロボロになった体で口もきけず目も見えない状態で土車に乗せられ、「熊野の薬湯に連れて行って湯に入れろ。引くと大変ご利益がある」という張り紙をされて地上(藤沢)に返されます。
この餓鬼のような姿となった小栗を何人もの手が車を引いて、美濃国青墓を通ります。
照手姫はこれが死んだ小栗だとは気が付きませんが、5日の休みをもらい、この車を4日間引いて、1日で戻ります。
この時に首に下げた札に自分のことも書きます。
その後小栗は何人かの手で無事に熊野のつぼ湯に浸かり息を吹き返すことができます。元気になった小栗は都に行って親の大納言に会い、今までの奇跡の出来事を帝に話し、小栗に近畿地方の五ヶ国と、美濃を所領として与えます。
その後大軍を率いて相模に行き、横山への復讐を遂げ、死後に八幡の神として祀られます。

これが歌舞伎になると話を少し面白くするためにいくつか話が変更されたり、付け加えられたりします。
お家騒動が話につけ加わり、また荒馬を乗りこなす話は「馬で小さな碁盤に乗る」曲乗りなどがあります。」

お話としてはその他に相模国(藤沢)の長生院に伝わる話があります。

「常陸国の小栗判官(小栗助重)は鎌倉公方足利持氏に攻め落とされ、10人の部下と共に相模の国に潜伏する。
そして相模国の横山家の娘「照手姫」(本来は北面武士の娘)を見染め、結婚の約束をする。しかしこれを良しと思わず、また小栗の金品も狙っていた横山親子により毒殺され上野原に埋められる。

そして大空上人が閻魔大王の夢のお告げでまだ息のあった小栗を何とか掘り出して寺に連れて帰り、熊野の湯の効能で回復する。
その後小栗は常陸の領地を与えられ、判官の任を与えられ、兵を率いて相模の横山を滅ぼし、照手姫を見つけ出して常陸の国に帰り二人は夫婦として過ごす。
小栗が亡くなった後、小栗の弟の助重が領地をつぎ、家来10勇士の墓をたてた。


さて、ここまでの話はどうも大分作られた話のようです。
では実際はどんなことがあったのでしょうか。

PB210032s.jpg

小栗の一向寺にある「十五代城主 小栗助重公(判官)之碑」:歌舞伎俳優三代目市川猿之助の奉納

常陸国の小栗氏は常陸国の大掾職を踏襲した桓武平氏系の多気大掾から分かれたものです。
(多気大掾3代目多気大掾(平)重幹の子供重義が初代小栗氏)
これは平安時代の西暦では1100年頃だと思われますから、この話の背景では、城主は14代目の小栗満重の時です。

応永18年(1411)10月、上杉禅秀に味方して鎌倉公方足利持氏に対し挙兵し公方の小山満泰などを打ち破るが、1423年には足利持氏自ら兵を率いての制圧により小栗満重は敗れ自殺したと言われている。

さて物語の主人公はこの満重の子供の助重が逃げのびて、1440年には結城合戦で武功を挙げて旧領を回復したという。
しかしその後またこの地を奪われ、助重は出家して入道となり「宗湛(そうたん)」と号した。

この宗湛はなかなかの画才の持ち主で、足利将軍家の御用絵師としてその才能を発揮した。
このような絵の才能があったことからこの浄瑠璃や説話が脚色されて伝わって行ったのではないかと思われます。

長くなりましたので、小栗の里に残された跡(一向寺など)などをもう少しこの後に紹介します。

小栗の里散策 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2015/11/23 22:27
コメント
No title
こんにちは。

藤沢市西俣野には「土震塚」など小栗伝承にまつわる小名が色々と残っていたりもするのですが、「新編相模国風土記稿」でも「好事の造設なるべし」などと書かれていますね。遊行寺長生院に照手姫のものと伝えられる墓があり、江戸時代から東海道を往来する旅人が参拝に立ち寄ったりしていましたから、そういう所からも伝承が補強されていった側面もありそうですね。
:kanageohis1964さま

> 藤沢市西俣野には「土震塚」など小栗伝承にまつわる小名が色々と残っていたりもするのですが、

そうですよね。話としてはこちらの藤沢の方が話も多く残されているようですね。
昔の説話は色々ありますが、「安寿と厨子王」のような話がほとんどで、これが各地に伝わっていますね。
伝わるうちにその地域に関係したように話も変わっていきます。
歴史の登場人物もたくさん尾ひれがついて面白おかしく、また苦労しながらも救われる様な設定です。

>「新編相模国風土記稿」でも「好事の造設なるべし」などと書かれていますね。

そうですか。これは知りませんがだれも事実とは思わないでしょうがそれの基となった実際の史実があるとは思っていることだと思います。
歌舞伎などでも取り上げられ話も時代に合わせて変わっていったと思います。
こんなことも調べて見ると結構面白いです。

コメント嬉しく頂戴いたしました。

管理者のみに表示