小栗の里散策(5)-小栗判官(助重)建立の太陽寺供養塔

 小栗判官の話が常陸国小栗にはどのように伝わっているのでしょうか。
昨日も書きましたが、この小栗判官は小栗の15代城主の助重がモデルだと思われますが、毒殺されたと思われるのはこの父である14代の満重です。

助重は毒殺から逃れて後に武功を挙げて故郷に戻ります。そして菩提寺であった太陽寺を復興させて、そこに親と10人の家来達の供養塔を建立したと伝わっています。

この太陽寺は現在廃寺となっているが、まだこの供養塔が「井出蛯沢地内」の残されていると言うので探してみました。

小貝川に近い場所の井出蛯沢と言うだけでは場所があまり特定されません。道も細く、すこしウロウロしてようやく見つけました。

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満重公を祀る正面の九重層塔の左右に5基ずつ比較的小さな五輪塔が合計10基置かれています。

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説明文を下記に起こしてみました。 

(伝)小栗十四代城主・小栗孫次郎平満重公と家臣の供養塔の由来(伝・大九重層塔・十人殿原五輪供養塔)
桓武天皇の曽孫・平上総介高望公から七代の子孫と伝えられる平重家公(平上総介重幹公の四子)は、平安時代の久寿2年(1155)にこの地方の伊勢皇太神宮小栗御厨(神領)の保司となって要害の地であった小栗山に築城し、小栗氏となり、その子孫は十五代まで300年余の間、盛衰の歴史の中にこの地方を統括されてきました。
その小栗の十四代城主であった小栗孫次郎平満重公は、室町時代の応永30年(1423)8月2日、関東公方足利持氏との激戦で敗れ小栗城は落城しました。
 伝承によれば、この落城により満重公親子(満重・助重)と家臣十名は、一族の小栗貞重等(愛知県)を頼って落ちのびる途中の応永33年(1426)3月16日に、相州(神奈川県横浜市)の豪族横山氏館での歓待宴膳の毒酒によって、満重公と家臣十名は毒殺されて上野ヶ原(神奈川県藤沢市)に棄てられたが、幸いにして時宗総本山遊行時(神奈川県藤沢市)遊行14代・他阿太空上人のご高配によって境内墓地に厚く埋葬されました。

幸運にもこの大難を逃れ九死に一生を得た小栗助重公は、一族の小栗貞重等に落ちのびたのち十余年を経た嘉吉元年(1441)の結城合戦に、幕府軍の将として大活躍をなし得た論功により再び小栗領に復しました。
 なお助重公は旧領に復した後の嘉吉年間(1441~1443)のころに、御先祖ご供養のため菩提寺であった天照山太陽寺(協和町井出蛯沢)を再び新しくご建立になり、毒殺という非業の死をとげられた父満重公と十勇家臣の追善供養のために、境内墓地に満重公の大九重層塔と、家臣の十人殿原五輪供養塔十基を建立されたと伝えられております。
この施主助重公が天照山太陽中興の開基であり、世上有名な小栗判官と称された室町戦国の武将で、小栗十五代城主・小栗彦次郎平助重公であります。(現地案内板)

この案内板にはそれ以外に小栗家の家系図と10勇家臣の名前と戒名が書かれています。

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太陽寺は現在は無く、ここは「太陽寺共同墓地」となっていました。

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墓地の隣には「天照山」の扁額のかかった山門があり、「天照山太陽寺」の寺を継承しているとも思われましたが、寺ではなく一般のお家のようでした。

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となりを流れる小貝川の土手に登って見ました。
川もかなり上流になりますので、それ程水量はありません。
また下館よりはだいぶ北ですので、今回の常総市の氾濫などの影響はあまりなかったでしょう。

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小貝川の堤防の上から共同墓地を眺めて見ました。
共同墓地の左手はこんもりした山があり、形は古墳のように見えます。
実際が何かは調べていないのでわかりません。

さて、十勇家臣は池野庄 司助長、後藤兵助介高、後藤大八郎高次、風間次郎正興、風間八郎正国、田邊平六郎長秀、田邊平八郎長為、片岡加太郎春教、片岡加治郎春高、水戸太郎為久 の10名と書かれています。

このうち、城が落城した時に石岡の大掾氏を頼って家臣の風間氏が守り本尊としていた阿弥陀像を持って石岡に逃げてきたといわれ、現在石岡のふるさと歴史館横に「風間阿弥陀」として前から置かれて展示されているものです。

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(石岡市にある風間阿弥陀)

また、稲敷市の江戸崎の昔の城主「土岐原氏」もこの時関東管領上杉憲方に従って美濃からやってきたのです。


小栗の里散策 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/11/24 20:33
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