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南北朝時代の忘れもの「船頭の宮」(神栖市波崎)

 このブログも開始してから5年4カ月が過ぎた。1950日というもの休みなく記事を書いてきた。

そして今これからどうしようかと思案している。
記事の内容も地元や出かけた先で足を延ばしたりしてその地域に眠るものを見つけて掘り起こしてきた。
掘り起こしといえばまだ聞こえは良いが、わからないものがあると興味が湧き、色々調べて記事にしてきた。

記事も単に書き写しただけの物もあるが、読んでみたくらいでは自分の知識不足で理解できないと、更にわからないことを調べて見たくなる。

人と視点が違っているとすればこのわからないことをそのままにしたくないという性格がなせるのかもしれない。
何故多くの人が、歴史などの書物に書いてあることを信じるのだろうかと疑問が湧くことも多い。

現地に行って感じたことはとても大切で、そこにはそこにいてその地に暮らしたり、史跡や風土、習慣(祭りなど)など守り継いできた人々がいてそんな人の思いが伝わってくるからだ。

まあ大そうに書いたが現地に行ってその場所を紹介するだけなのだが、思ったことなどをできるだけ残していきたいと常に思っている。

5年を過ぎた頃から記事をまとめたいと思い、この眠る歴史の掘り起こしなどから少し外れた記事が多くなった。
そして先月途中からフェースブックなどというものを始めた。

まだなんだかよくわからないが、ブログ記事とはまた違った世界で良いのやら悪いのやらトンと見当がつかない。
そのうちに何となくわかるのかもしれないが、ブログ2つにFBなどをやっていては仕事に影響してしまいそうで困っている。

どれも中途半端になるのだけは避けたいものだ。

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今日は銚子に向かう時に神栖市を通り、銚子大橋を渡っていくことが最近多くなった。
以前は香取を通ったり、利根川と常陸川の間の中州を通ったりしていた。

この神栖もだいたい征服したと思っていたのだが、神栖の中心地を過ぎて、しばらく行くと現在の街道より利根川側に平行に走る旧道があった。

そこに少し変わったお宮が置かれていた。

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大きな家の庭の一部を分けたようなお宮で、奥に2つのお宮が置かれていた。

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二つ並んだ奥の小さい方のお宮の脇にこのお宮の由来が書かれていた。
「船頭の宮」と書かれており、お宮の屋根には源氏の家紋笹竜胆のマークが二つ描かれていた。

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(現地説明文)
船頭の宮の由来:
 「天皇家が二つに分かれ、世の中が乱れていた南北朝時代、上野国(群馬県)の住人・篠塚伊賀守重広は、南朝方の重臣・新田義貞の四天王として各地で奮戦した。
 興國三年(1342)、伊賀守は伊予国(愛知県)世田城にて北朝方の軍勢を迎え撃ったが、奮闘及ばず城は落ちた。しかし武勇に聞こえた伊賀守は、鉄棒を振り回して敵中突破を敢行、今治浦から敵船を奪って、見事に隠岐島(現愛媛県越智郡上島町魚島)へと脱出した。
 さて、しばらく隠岐島にて暮らしていた伊勢守であるが、望郷の念禁じがたく、島の農民を船頭にして、郷里目指して帆を揚げた。そして、この本郷に上陸したのである。その時、乗ってきた船の碇(いかり)を記念にこの地に残した。それが宝蔵院の碇石(いかりいし)である。
 伊賀守は、本郷に滞在した後、南朝再興を願って旅だった。残された船頭は、そのままこの地に住み、そしてこの地にて生涯を終えた。
 遠い故郷を思いながらも帰れなかった船頭、その無念さに心痛んだ本郷の人々は、その御霊の安らかなることを願って祠を建てた。これが船頭の宮の由来である。
       篠塚家由来碑 」

この南北朝時代の話となるとかなる古く、世の中も混乱して理解に苦しむが、南朝方の新田義貞の四天王というのが篠塚伊賀守ということになるが、破れて四国から上野国(群馬)に戻る時に船を操縦してくれた船頭が四国には帰れずこの地で亡くなったという。

しかし、このとなりの大きな屋敷の主は篠塚さんというようなので、どちらの子孫の方なのだろうか?

前に、利根川の向こう側の信太郡の大杉神社の近くにある神宮寺というところに昔あった城跡(神宮寺城)がたしか南朝方の「北畠 親房」が南朝方を立て直そうと伊勢から舟で喜多を目指してやってきたが船が難破してこの城にたどり着いたことを知った。

北畠はその後小田城に逃げ込んで「神皇正統記」を書いたことでよく知られている。

その後も大宝城や関城などを転々と・・・・・。

色々と今までの流れもつながってくる。

南北朝も難しいが、何となく流れが見えてきたようにも思う。


神栖 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/12/16 20:56
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