宝蔵院(神栖市波崎)
昨日書いた「船頭の宮」のすぐ近くに立派な寺があった。
真言宗智山派 嶋崎山宝蔵院。 とあり藁葺の山門脇には立派な仁王像が置かれていた。

昨日の記事でもこの寺の名前が出てきていたので、もしかしたらこの寺に船の碇(いかり)が残されているのかもしれない。
少し見て回ったところでは見当たらなかった。

この辺りでは大きなお寺であるが、歴史的なことは書かれた物がなく、説明に窮してしまう。

南朝方の新田義貞の四天王といわれた群馬の篠塚伊賀守重広が四国で敗れて逃れた島から故郷を目指して船に乗ってこの地にやってきたというが、当時はもう北畠 親房も小田城から関城に移り、そこも追われて都へ戻った後であった。
船を操った船頭はどんな人物だったのか?
農民とも言われるが、当時熊野水軍の助けを借りて戻ってきたようである。

ただこの辺りの寺としてはかなり古そうだ。
船がこの地にたどりついた当時は今より水辺はもっと今の陸地側まで迫っていたようできっと葦が生えているような土地だったように思う。



まあ寺のことがあまり分からないので、写真のみを載せておくにとどめよう。
真言宗智山派 嶋崎山宝蔵院。 とあり藁葺の山門脇には立派な仁王像が置かれていた。

昨日の記事でもこの寺の名前が出てきていたので、もしかしたらこの寺に船の碇(いかり)が残されているのかもしれない。
少し見て回ったところでは見当たらなかった。

この辺りでは大きなお寺であるが、歴史的なことは書かれた物がなく、説明に窮してしまう。

南朝方の新田義貞の四天王といわれた群馬の篠塚伊賀守重広が四国で敗れて逃れた島から故郷を目指して船に乗ってこの地にやってきたというが、当時はもう北畠 親房も小田城から関城に移り、そこも追われて都へ戻った後であった。
船を操った船頭はどんな人物だったのか?
農民とも言われるが、当時熊野水軍の助けを借りて戻ってきたようである。

ただこの辺りの寺としてはかなり古そうだ。
船がこの地にたどりついた当時は今より水辺はもっと今の陸地側まで迫っていたようできっと葦が生えているような土地だったように思う。



まあ寺のことがあまり分からないので、写真のみを載せておくにとどめよう。
コメント