聾語と手話(2)
昨日は聾者の親に娘がクリスマスソングを手話とおどけたような表現たっぷりの表情で音楽の楽しさを伝えている映像を紹介しました。
聾唖(ろうあ)という言葉を差別用語と理解している方がいますが、決して差別用語ではありません。
聾(ろう)という字は「龍の耳」と書きます。
これを差別のことばととらえるのは、その人が手足目耳口などが健常者でそれ以外の人を「障害者」「障碍者」と区別してよび、「可哀そうな人」「自分より劣っている弱者」と思っている人にはわからないのかもしれません。
聾者には生まれた時から、または音を理解するより前に耳が聞こえなくなった人(ネイティブな聾者)、それ以外の一度正常の音や音楽を理解してから聞こえなくなってしまった人(後発的聾者)の2つのグループがいます。
これらの人はどちらも表面的には同じように思いますが、しかしその手話の表現力が全く違っています。
私は手話を勉強したこともなく、これをどう表現したら良いかがわからないのですが、例えばどちらも本を読むことはでき、言葉を理解することは同じ様にできます。
しかし声を出して会話することは後発的聾者の場合は聞こえなくてもある程度できるようになるかもしれません。
一方ネイティブの聾者は音の世界を全く知りません。このため話すことは多くの場合に困難で会話の手段として手話が必要です。
でもこの手話に驚くほど豊かな感情表現が加えられる場合があります。

このポスターは今年4月に東京立川のLaLaLaで行なわれた手話舞のポスターです。
ここに「聾語」について説明がありますのでここに紹介します。
「聾者には元々言語学的には確立されてはいませんが、聾語というものがありました。聾者にしか語ることが難しい聾語をベースに、手話を融合させて創出されたのが手話舞です。現在手話舞を演じられるの俳優は聾者である小林幸枝ただ一人です。健聴者の便利から生まれた手話と聾者自身の個性を表現する聾語が綾なす舞をお楽しみください。」
ここでのポイントは
「聾語は聾者自身の表現のことばで、手話は健聴者が便利なように作られたものだ」
ということでしょうか。
少し偉そうに書きましたが、私にはまだほんの入口しか理解できていないと思います。
しかし、手話サークルなどでこのような話はあまりされていないのではないでしょうか?
私としてはもう少しこのような観点での理解が深まればいいなと願うものです。
聾唖(ろうあ)という言葉を差別用語と理解している方がいますが、決して差別用語ではありません。
聾(ろう)という字は「龍の耳」と書きます。
これを差別のことばととらえるのは、その人が手足目耳口などが健常者でそれ以外の人を「障害者」「障碍者」と区別してよび、「可哀そうな人」「自分より劣っている弱者」と思っている人にはわからないのかもしれません。
聾者には生まれた時から、または音を理解するより前に耳が聞こえなくなった人(ネイティブな聾者)、それ以外の一度正常の音や音楽を理解してから聞こえなくなってしまった人(後発的聾者)の2つのグループがいます。
これらの人はどちらも表面的には同じように思いますが、しかしその手話の表現力が全く違っています。
私は手話を勉強したこともなく、これをどう表現したら良いかがわからないのですが、例えばどちらも本を読むことはでき、言葉を理解することは同じ様にできます。
しかし声を出して会話することは後発的聾者の場合は聞こえなくてもある程度できるようになるかもしれません。
一方ネイティブの聾者は音の世界を全く知りません。このため話すことは多くの場合に困難で会話の手段として手話が必要です。
でもこの手話に驚くほど豊かな感情表現が加えられる場合があります。

このポスターは今年4月に東京立川のLaLaLaで行なわれた手話舞のポスターです。
ここに「聾語」について説明がありますのでここに紹介します。
「聾者には元々言語学的には確立されてはいませんが、聾語というものがありました。聾者にしか語ることが難しい聾語をベースに、手話を融合させて創出されたのが手話舞です。現在手話舞を演じられるの俳優は聾者である小林幸枝ただ一人です。健聴者の便利から生まれた手話と聾者自身の個性を表現する聾語が綾なす舞をお楽しみください。」
ここでのポイントは
「聾語は聾者自身の表現のことばで、手話は健聴者が便利なように作られたものだ」
ということでしょうか。
少し偉そうに書きましたが、私にはまだほんの入口しか理解できていないと思います。
しかし、手話サークルなどでこのような話はあまりされていないのではないでしょうか?
私としてはもう少しこのような観点での理解が深まればいいなと願うものです。
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