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常陸国府の駅家(うまや)はここなのか?

 奈良に都があった頃に伊賀上野から常陸国国府(現在の石岡)へ海岸寄りに通っていた(古)東海道は東京湾を海で渡っていた。
そして上総国(市原)、下総国(市川)を通ってこの常陸国の国府(石岡)に向かっていた。
そのため古東海道は石岡が終点であった。

街道には常時馬を準備しておく「駅家(うまや)」(約16km毎)が置かれていた。
しかし市川から石岡の間には大きな内海(香取の海、流れ海:現在の霞ケ浦から印旛沼などが一体となった内海)が広がっていた。
そのためかどうかはわからないがこのルートが皆目わからない。

最後の駅家であった常陸府中の駅家がどこなのかは解明されていない。

ただその有力な候補地が石岡市国府の6号国道の貝地と反対側の少し高くなった場所にある。
しかしここを通る人もほとんどなく知られてもいない。

P1050008s.jpg

住宅街の一角(国府4-3-16?)にこんもりと土が盛られた場所があり、「月読神」と「庚申塔」の石碑が置かれている。

古東海道は霞ケ浦を渡ってきたと思われるので、高浜方面から真っ直ぐに府中の街に入った入口に当たる位置であり、不思議な場所ではない。

私が石岡の歴史に興味を覚えた最初(今から10年ほど前)がこの古東海道であった。
このブログも5年を経過したが、また振り出しに戻って何か残された痕跡がないか探すこともやっておかねばならない。

年の初めにまた目標が一つ増えてしまった。


古東海道 | コメント(6) | トラックバック(0) | 2016/01/06 19:50
コメント
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鍵コメさま
こんにちは。
コメントありがとうございます。

この古東海道がどこを通っていたかは諸説ありますね。
Wikipediaはみておりませんが、常陸風土記1300年記念に行った「古代のみち」という展示会がありました。
この時にはおっしゃっていた通りの千葉県側から榎浦の津にやってきたのだろうと推察されていました。
榎浦の津を下君山の先の飛び出したあたりの遺跡を調べてこのあたりだろうと推察したものです。
しかし、荒海駅家あたりも行きましたが感じるものは何もありませんでした。
下君山に郡寺ができていた時代は私の想像ではこの東海道の通っていた時代のだいぶ後の方です。

勝手な解釈とお思いでしょうが榎浦の津は今の江戸崎あたりでその頃の信太郡家は今の信太(楯縫神社)あたりにあったと想像しています。
この荒海駅ルートもしばらくした後にはきっと通ったのではないかと思います。
ご連絡の内容は承知の上の私の勝手な思い込みですので私の記事をうのみにする方もおられないでしょう。
「こういう解釈もあり」という程度にお考えいただければ幸いです。
まだわかっていないことだらけです。
Wikipwdiaもかなり嘘も多いように思います。
コメント大変ありがとうございました。

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鍵コメさま
ご丁寧にご連絡いただきありがとうございます。
私も最初はこの千葉側のルートは知らずに延喜式の駅家名で調べておりました。
そして千葉県側の方にもいくようになってはじめて荒海駅がわからわたってきたのではないかと千葉県の歴史書などにも書かれていることを知りました。
でもどうもイメージがわかないのです。
確かに横芝光町側から古代には多古町を通ってこちらにわたっていたルートはありそうです。
しかし下総国府(市川)からの古東海道が荒海駅経由というのはイメージがわきません。
また上総(市原)から印旛沼方面経由で下総国府を通らずに渡っていたときはきっとこのルートも通っていたという気はします。

常陸国風土記の8世紀初めは市川からわざわざこちらを通って利根川を渡るのは少しイメージから外れます。
いくつもルートはあったものと思います。
ただ榎浦の津が常陸国入り口なのですが私は今の江戸崎あたりだと思っているのですが、いくつも説があるようです。
Wikipediaも良く調べて書かれていると思いますが、そのまま鵜呑みにはできないようです。
またご連絡ください。
上総国から直に常陸国に向かったのでは?
Romanさん
たわいのないコメントに対していつも丁寧にお応え頂きありがとうございます。
ご存じだと思いますが、天長3年(826年)に常陸国、上野国、上総国の3ヶ国は「親王任国」(必ず親王=太子が国守に任命される国)となっています。このことから、分割される前の毛野国と総国(正しくは[手偏に求]国)の国府は、後の上野国、上総国のなかに置かれていたのではないでしょうか。だとすれば、その2ヶ国が上下に分割される前の古官道は上野国府、上総国府を通っていて、上野国国府ー下野国国庁、上総国国府ー下総国国庁の道は支線(官道を国道とすれば県道一般道)だったのではないでしょうか。古東海道は上総国から常陸国へ直に向かった(下総国へは向かわなかった)と考えられないでしょうか。かってに妄想してみました。
Re: 上総国から直に常陸国に向かったのでは?
sanmaoさま

コメントうれしく頂戴いたしました。

> 天長3年(826年)に常陸国、上野国、上総国の3ヶ国は「親王任国」(必ず親王=太子が国守に任命される国)となっています。

こちらは知っていますが、天皇家も子孫が増えて養えなくなって直接の任国を決めたと思っています。
まあこのせいで常陸のダイジョウ氏などが大きな力を持ってきたものですよね。

> このことから、分割される前の毛野国と総国(正しくは[手偏に求]国)の国府は、後の上野国、上総国のなかに置かれていたのではないでしょうか。

そうなのですか。あまり詳しくわからないのですが古東海道は上総国から下総国への道は結構わかっていますよね。
確かに在原業平や更級日記の頃は平安時代中期ですでに親王任国に指定されていたのですが、下総国あたりのことが書かれているように思います。(あまり詳しくはないのですが)
そのもっと前の時代がどうかというと確かに上総国から直接常陸国へのルートがあったということも十分考えられますね。

常陸国の入り口が榎浦の津という湊でこの場所の設定が難しいですね。
古代の道という展覧会では荒海から舟で新宿遺跡(下君山の手前)の場所のわたり、ここが榎浦津だと推定されていました。
そちらの説が有力なのかもしれません。

大昔なのでわからないのですが、下君山が信太郡の郡衙となったのはここで発見された郡寺やしき寺の瓦などの時代で900年代初め頃ではないかと思っています。江戸崎の地名がやはり榎浦がもとになっていると考えた方がどこかすっきりします。
5~6世紀ころのルートはきっと美浦村から霞ケ浦を渡っていたという風に考えるとその地に伝わっている話などがつながってきます。たしかに地名として「荒海」が残っていますがここに伝わる話が何もない。
風土記にここにすむ鹿の味は腐ってゐるやうだと書かれていて下総の狩人に採りつくされることはないと書かれているのなども私としてはイメージに合わない理由です。
まあ延喜式も927年と言われているのでその頃の駅家を追いかけてもわからないかもしれないですね。
どちらにしてもまだまだ分からないことだらけです。
私の考えが至らないということは十分考えられます。
お互い妄想して楽しみましょう。
コメントありがとうございます。

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