じゃかもこじゃん考(5)-翁舞と世阿弥に能(申楽)
昨日書いた柿岡の八幡宮で行なわれている神楽「じゃかもこじゃん」の中でも、特に「老翁」の舞いがじゃかもこじゃんに通じると言われています。
何故なのでしょう?

(柿岡じゃかもこじゃんの翁舞)
そのため少し「翁舞」という伝統芸能について調べて見ましょう。
Wikipediaによれば
「翁舞(おきなまい)は、日本の伝統芸能の舞。現在の能楽の原典とされる他、民俗芸能として各地に伝えられている。長寿の翁が人々の安寧を祈って舞う。
古くは田楽や猿楽、あるいは人形浄瑠璃、歌舞伎、また民俗芸能などでも演じられる儀式的祝言曲であり、芸能本来の目的の一つに人の延命を願うことがあるが、その表現として翁媼を登場させることがあったものと考えられている。しかし、面を付け舞や語りを演じる芸能は猿楽が最初であり、翁猿楽とか式三番と称された。」
と書かれています。
やはり「おでん」と同じく「田楽や猿楽」がそのルーツです。
でもその中でも翁には特別な意味が隠されているのかもしれません。
もう一つこの翁舞に続いて演じられるという「三番叟(さんばそう)」がありますが、これもこの流れが続いているものと考えます。
三番叟としてこの近くで思い浮かべるのは成田飛行場近くの取香にある側高神社で行なわれています。
取香(とっこう)は香取をひっくり返した地名で、側高(そばたか)神社も祭神が長いこと不明とされてる千葉氏ゆかりの神社です。
さて、もう一つ前に書いた記事を思い出しています。
それは雨引観音で行なわれている「マダラ鬼神祭」について書いたブログ記事です。前に書いたのとダブってしまいますが、もう一度書くことをお許しください。
(前の記事はこちら)
室町時代に父親の観阿弥とともに「能」を完成させた世阿弥の「風姿花伝」に能の歴史が第四のところに書かれている。
「 一、日本国においては、欽明天皇御宇に、大和国泊瀬の河に、洪水のをりふし、河上より、一の壺流れくだる。
三輪の杉の鳥居のほとりにて、雲各この壺をとる。
なかにみどりごあり。貌柔和にして玉のごとし。これ降り人な るがゆゑに、内裏に奏聞す。
その夜、御門の御夢に、みどりごのいふ、われはこれ、大国秦始皇の再誕なり。
日域 に機縁ありて、いま現在すといふ。
御門奇特におぼしめし、殿上にめさる。
成人にしたがひて、才知人に超えば、 年十五にて、大臣の位にのぼり、秦の姓をくださるる。
「秦」といふ文字、「はた」なるがゆゑに、秦河勝これな り。
上宮太子、天下すこし障りありし時、神代・仏在所の吉例にまかせて、六十六番のものまねを、かの河勝にお ほせて、同じく六十六番の面を御作にて、すなはち河勝に与へたまふ。
橘の内裏の柴宸殿にてこれを勤す。天治ま り国しづかなり。
上宮太子・末代のため、神楽なりしを神といふ文字の偏を除けて、旁を残したまふ。
これ非暦の 申なるがゆゑに、申楽と名附く。すなはち、楽しみを申すによりてなり。
または、神楽を分くればなり。 ・・・・・・・。 」
と書かれている。
今では「能」と言っているが明治の前までは「猿楽」と呼ばれており、世阿弥は「申楽」とこの「風姿花伝」には書いている。
そして、世阿弥によれば、この申楽(猿楽)の歴史は、渡来人である「秦河勝(はたかわかつ)」によるとしている。
秦河勝は6世紀に朝鮮半島からこの国に渡ってきた渡来人集団「秦氏」の長で、秦の始皇帝の子孫であるとも言われている人物だ。
このため能の起こりは渡来であるとの説が強くあるが、日本に来て発展して芸能に高めたのは世阿弥であった。
さて、この田楽や猿楽と「じゃかもこじゃん」という一風変わった名前がどう結びついたかであるが、このヒントをもらったのがこの秦河勝が住んだと言われている京都太秦(うずまさ)のにある広隆寺に伝わる「摩多羅神(まだらじん)祭」である。
広隆寺は秦河勝が聖徳太子から賜った半跏思惟像の弥勒菩薩を本尊として建立した寺だと伝わっている。
摩多羅神についてWikipediaから少し転載させていただこう。
「摩多羅神(またらじんは、天台宗、特に玄旨帰命壇における本尊で、阿弥陀経および念仏の守護神ともされる。常行三昧堂(常行堂)の「後戸の神」として知られる」
「天台宗の円仁が中国(唐)で五台山の引声念仏を相伝し、帰国する際に船中で虚空から摩多羅神の声が聞こえて感得、比叡山に常行堂を建立して勧請し、常行三昧を始修して阿弥陀信仰を始めた」
と書かれている。
後戸の神というのは本尊の裏でこっそりとそれを支えているような神様で、これは隠されて見えないようになっている。

この本は川村湊氏が書いた「闇の摩多羅神」という本の表紙であるが、ここに不思議な笑みを浮かべた摩多羅神と2人の童子が踊る様子の絵がある。
これは日光輪王寺常行堂摩多羅神像の絵である。
この2童子は丁禮多(ちょうれいた)・爾子多(にした)」と言い、貪・瞋・癡の三毒煩悩の象徴とされるという。
そしてこの摩多羅神が田楽や猿(申)楽になり能の発祥の起源になったといわれている。
この本によれば摩多羅神は「宿神(しゅくじん)」であるという。
どうもこの宿神という言葉が「しゅくじん」「しゃくじん」などと呼ばれていたので、これが言葉の響きから「じゃかもこじゃん」となったのではないだろうか。
この宿神について、世界大百科事典では
「呪術的信仰対象の一つ。〈しゅくしん〉は,守宮神,守久神,社宮司,守公神,守瞽神,主空神,粛慎の神,守君神など,さまざまな表記があるが,元来はシャグジ,シュグジなどと称された小祠の神の名だったと思われる。シャグジ,シュグジは辺境の地主神であるが,呪術的性格の強かった密教や神道のほか荒神,道祖神など他の民間信仰と習合を果たし,非常に複雑なまつられ方をしている。おびただしい異表記があるのはそのためである。」
と解説されている。
東京にある「石神井(しゃくじい)などもおそらくこの宿神から変化したものと思われる。
長くなったが、これからもっと深めるのはもう少し勉強してみなければ理解できそうにない。
雨引山に伝わる「マダラ鬼神祭」なども、寺が焼けた時にどこからともなくやってきたマダラ鬼があっという間に寺を再建したという言い伝えから今でもこれを祭りとして行なっているもので、奥が深そうなのだがこれがまたよくわからない。
祭りの様子は前に紹介しているので興味があれば読んでみてください。
(こちら1、こちら2、こちら3)
何故なのでしょう?

(柿岡じゃかもこじゃんの翁舞)
そのため少し「翁舞」という伝統芸能について調べて見ましょう。
Wikipediaによれば
「翁舞(おきなまい)は、日本の伝統芸能の舞。現在の能楽の原典とされる他、民俗芸能として各地に伝えられている。長寿の翁が人々の安寧を祈って舞う。
古くは田楽や猿楽、あるいは人形浄瑠璃、歌舞伎、また民俗芸能などでも演じられる儀式的祝言曲であり、芸能本来の目的の一つに人の延命を願うことがあるが、その表現として翁媼を登場させることがあったものと考えられている。しかし、面を付け舞や語りを演じる芸能は猿楽が最初であり、翁猿楽とか式三番と称された。」
と書かれています。
やはり「おでん」と同じく「田楽や猿楽」がそのルーツです。
でもその中でも翁には特別な意味が隠されているのかもしれません。
もう一つこの翁舞に続いて演じられるという「三番叟(さんばそう)」がありますが、これもこの流れが続いているものと考えます。
三番叟としてこの近くで思い浮かべるのは成田飛行場近くの取香にある側高神社で行なわれています。
取香(とっこう)は香取をひっくり返した地名で、側高(そばたか)神社も祭神が長いこと不明とされてる千葉氏ゆかりの神社です。
さて、もう一つ前に書いた記事を思い出しています。
それは雨引観音で行なわれている「マダラ鬼神祭」について書いたブログ記事です。前に書いたのとダブってしまいますが、もう一度書くことをお許しください。
(前の記事はこちら)
室町時代に父親の観阿弥とともに「能」を完成させた世阿弥の「風姿花伝」に能の歴史が第四のところに書かれている。
「 一、日本国においては、欽明天皇御宇に、大和国泊瀬の河に、洪水のをりふし、河上より、一の壺流れくだる。
三輪の杉の鳥居のほとりにて、雲各この壺をとる。
なかにみどりごあり。貌柔和にして玉のごとし。これ降り人な るがゆゑに、内裏に奏聞す。
その夜、御門の御夢に、みどりごのいふ、われはこれ、大国秦始皇の再誕なり。
日域 に機縁ありて、いま現在すといふ。
御門奇特におぼしめし、殿上にめさる。
成人にしたがひて、才知人に超えば、 年十五にて、大臣の位にのぼり、秦の姓をくださるる。
「秦」といふ文字、「はた」なるがゆゑに、秦河勝これな り。
上宮太子、天下すこし障りありし時、神代・仏在所の吉例にまかせて、六十六番のものまねを、かの河勝にお ほせて、同じく六十六番の面を御作にて、すなはち河勝に与へたまふ。
橘の内裏の柴宸殿にてこれを勤す。天治ま り国しづかなり。
上宮太子・末代のため、神楽なりしを神といふ文字の偏を除けて、旁を残したまふ。
これ非暦の 申なるがゆゑに、申楽と名附く。すなはち、楽しみを申すによりてなり。
または、神楽を分くればなり。 ・・・・・・・。 」
と書かれている。
今では「能」と言っているが明治の前までは「猿楽」と呼ばれており、世阿弥は「申楽」とこの「風姿花伝」には書いている。
そして、世阿弥によれば、この申楽(猿楽)の歴史は、渡来人である「秦河勝(はたかわかつ)」によるとしている。
秦河勝は6世紀に朝鮮半島からこの国に渡ってきた渡来人集団「秦氏」の長で、秦の始皇帝の子孫であるとも言われている人物だ。
このため能の起こりは渡来であるとの説が強くあるが、日本に来て発展して芸能に高めたのは世阿弥であった。
さて、この田楽や猿楽と「じゃかもこじゃん」という一風変わった名前がどう結びついたかであるが、このヒントをもらったのがこの秦河勝が住んだと言われている京都太秦(うずまさ)のにある広隆寺に伝わる「摩多羅神(まだらじん)祭」である。
広隆寺は秦河勝が聖徳太子から賜った半跏思惟像の弥勒菩薩を本尊として建立した寺だと伝わっている。
摩多羅神についてWikipediaから少し転載させていただこう。
「摩多羅神(またらじんは、天台宗、特に玄旨帰命壇における本尊で、阿弥陀経および念仏の守護神ともされる。常行三昧堂(常行堂)の「後戸の神」として知られる」
「天台宗の円仁が中国(唐)で五台山の引声念仏を相伝し、帰国する際に船中で虚空から摩多羅神の声が聞こえて感得、比叡山に常行堂を建立して勧請し、常行三昧を始修して阿弥陀信仰を始めた」
と書かれている。
後戸の神というのは本尊の裏でこっそりとそれを支えているような神様で、これは隠されて見えないようになっている。

この本は川村湊氏が書いた「闇の摩多羅神」という本の表紙であるが、ここに不思議な笑みを浮かべた摩多羅神と2人の童子が踊る様子の絵がある。
これは日光輪王寺常行堂摩多羅神像の絵である。
この2童子は丁禮多(ちょうれいた)・爾子多(にした)」と言い、貪・瞋・癡の三毒煩悩の象徴とされるという。
そしてこの摩多羅神が田楽や猿(申)楽になり能の発祥の起源になったといわれている。
この本によれば摩多羅神は「宿神(しゅくじん)」であるという。
どうもこの宿神という言葉が「しゅくじん」「しゃくじん」などと呼ばれていたので、これが言葉の響きから「じゃかもこじゃん」となったのではないだろうか。
この宿神について、世界大百科事典では
「呪術的信仰対象の一つ。〈しゅくしん〉は,守宮神,守久神,社宮司,守公神,守瞽神,主空神,粛慎の神,守君神など,さまざまな表記があるが,元来はシャグジ,シュグジなどと称された小祠の神の名だったと思われる。シャグジ,シュグジは辺境の地主神であるが,呪術的性格の強かった密教や神道のほか荒神,道祖神など他の民間信仰と習合を果たし,非常に複雑なまつられ方をしている。おびただしい異表記があるのはそのためである。」
と解説されている。
東京にある「石神井(しゃくじい)などもおそらくこの宿神から変化したものと思われる。
長くなったが、これからもっと深めるのはもう少し勉強してみなければ理解できそうにない。
雨引山に伝わる「マダラ鬼神祭」なども、寺が焼けた時にどこからともなくやってきたマダラ鬼があっという間に寺を再建したという言い伝えから今でもこれを祭りとして行なっているもので、奥が深そうなのだがこれがまたよくわからない。
祭りの様子は前に紹介しているので興味があれば読んでみてください。
(こちら1、こちら2、こちら3)
こちらこそありがとうございます。
気になっていたので好きに書かせてもらいました。
おでんを食べてじゃかもこじゃんと言うのが面白くて。
この祭りが無くなってしまったのは惜しいです。