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行方市沖洲の常福寺の山門

 国道355号線を石岡から小美玉市を通って行方市に入りますが、行方市に入ってすぐ左手に「三昧塚古墳」が目に飛び込んできます。

そこから少し行くと「於岐都説神社」があり、道が二股に分かれています。
(於岐都説神社については前の記事を参照してください → こちら

国道は少し山を登るように登り坂になりますが、右手の旧道を進みしばらくいくと「常福寺」がある。

この寺は現在もうないが、本堂があったと思われる場所には地区(沖洲)の農村集落センターという校門間のような建物が立っている。

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この残された山門が市の文化財に指定されていると知って訪れて見た。

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沖洲地区を少し行くと、左手のすこし入った奥まったところにこの寺が見えた。
山門と奥の堂宇が良い具合にマッチして昔大きかったらしい寺の面影を残していた。

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<説明看板>では
京都真言宗新義派三宝院末寺の当寺院は、天福元年(1233年)の開山で、常陸地方の中では寺格が高く、多くの修行僧が学び、高野山はじめ各地の寺院へ赴いたといわれています。戦国末期には佐竹領となり佐竹氏の庇護を受け、一時期祈願寺となりました。
元禄年間の沖洲村絵図には七堂伽藍(がらん)が描かれ、山門も「一の門」と「二の門」がありました。現在の門は「二の門」に相当し、霞ヶ浦湖岸から続く参道に置かれていたものを昭和初期にこの場所に移転させました。
 しかし、天明年間(1781~1789年)の山崩れで堂宇が崩壊して火災に遭い、当山門と仏像を残して焼失しました。現在の境内には、山門のほか、近世の堂2棟があり、往時を偲ばせています。
 この山門は、妻入り四脚門形式で、当初は茅葺き切妻造りでした。また、蟇股(かえるまた)に特徴があるなど、室町中期頃の名残をとどめる地方色の濃い建物です。
 近年、風雨にさらされ傷みがひどくなったが、貴重な歴史資料として地域の人々に保護され、平成11年度に屋根を銅板葺きに改めるなど、解体修理が実施されました。

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京都真言宗新義派三宝院と書かれているが、この宗派がよくわからない。

Wikipediaによると:
「新義真言宗(しんぎしんごんしゅう)は、空海(弘法大師)を始祖とする真言宗の宗派の一つで、真言宗中興の祖覚鑁(興教大師)の教学を元に覚鑁派の僧正頼瑜に連なる。高野山内で新たな教義を打ち立てたため「新義」と呼ばれた。広義では、根来寺を本山とする新義真言宗、智積院を本山とする真言宗智山派、長谷寺を本山とする真言宗豊山派、室生寺を本山とする真言宗室生寺派などを含むが、狭義では真言宗十八本山の一つで、根来寺を総本山とする」
とかかれています。

ただ「京都三宝院」はどう修験道の寺であったようだが、そこには今は醍醐寺と一体になっているようだ。
もう少し調べて見ないとよく理解できない。

この寺も1233年(鎌倉時代)の開山というのでかなり古い。
常陸国の中でもかなり大きな寺であったらしい。


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宝篋印塔が1基近くに置かれていた。

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寺の本堂があったと思われる場所にはこのように農村集落センター建っていた。
この寺は明治になって無住となり、本堂もそのもっと前に無くなってしまっていたようです。


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この寺にはもう一つ比較的小さくて素朴な木造随身像があり一時はこの集落センターで保管していたらしいが、現在は県立歴史館に移されているようです。

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境内には二つの堂宇が残されていました。
手前が「観音堂」で奥に「毘沙門堂」です。

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こちらが観音堂。 しかし堂宇の内部に観音様は無いようです。

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こちらが毘沙門堂です。

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内部にはこのように毘沙門像が置かれています。

寺の雰囲気は比較的昔の姿を残しているように思います。
落ち着いていて、石岡の「長楽寺」などと同じような雰囲気でした。


玉造 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2016/02/28 19:43
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