舟塚古墳(玉里)
旧玉里村の権現山古墳に次いで大きな「舟塚古墳」を紹介します。
場所は玉里郵便局のところを霞ケ浦の方(照光寺の方)に少し行った場所で、照光寺の通りの向かい側になる。
確か照光寺の入口にも少し変わった「雷電山古墳」があります。(前に紹介した記事 →こちら)

この舟塚古墳もかなり大きな古墳で全長が84mの前方後円墳で、権現山古墳の89.5mに次ぐ大きさである。



築造時代は6世紀の半ばと考えられるということで、石岡の舟塚山古墳よりは100年ほど後で、権現山より50年ほど新しいようだ。
どのような豪族がこの辺りに住んでいたのだろうか?
いずれにしても律令制の始まるより前の話で、石岡の舟塚山古墳が茨城国造であった筑紫刀祢(天津彦根命の孫)の墓ではないかとも言われている。
この辺りの時代はあまり残されている物がなく推察するばかりであるが・・・・。

この古墳も規模からいってかなりの権力者の物だったことが考えられる。

権現山などよりは内陸にあるので時代で段々内陸に寄って来たのであろうか。

古墳内部の墳墓の石棺内部は朱塗りされていたようで興味が湧く。


場所は玉里郵便局のところを霞ケ浦の方(照光寺の方)に少し行った場所で、照光寺の通りの向かい側になる。
確か照光寺の入口にも少し変わった「雷電山古墳」があります。(前に紹介した記事 →こちら)

この舟塚古墳もかなり大きな古墳で全長が84mの前方後円墳で、権現山古墳の89.5mに次ぐ大きさである。



築造時代は6世紀の半ばと考えられるということで、石岡の舟塚山古墳よりは100年ほど後で、権現山より50年ほど新しいようだ。
どのような豪族がこの辺りに住んでいたのだろうか?
いずれにしても律令制の始まるより前の話で、石岡の舟塚山古墳が茨城国造であった筑紫刀祢(天津彦根命の孫)の墓ではないかとも言われている。
この辺りの時代はあまり残されている物がなく推察するばかりであるが・・・・。

この古墳も規模からいってかなりの権力者の物だったことが考えられる。

権現山などよりは内陸にあるので時代で段々内陸に寄って来たのであろうか。

古墳内部の墳墓の石棺内部は朱塗りされていたようで興味が湧く。


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