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日限地蔵尊と地蔵塚古墳(小川)

 玉里地区の古墳を見てきたが、小美玉市として他の古墳の場所を調べて見た。
その中に面白いものを見つけた。

地蔵塚古墳というのだが、場所は小川の街から幡谷方面にすこし行った小川南中の少し先になる。

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この地蔵塚古墳といわれるのはここに茨城では珍しい日限地蔵尊 (ひぎりじぞうそん)がまつられているからだ。
日を限って願い事をすれば(何月何日に何かを成し遂げたい)その願いがかなえられると言われる地蔵さんで、特に子供の誕生を願うことが多いようだ。

今でも旧暦の毎月24日に願い事のある人がお参りに集まる(近くの公民館?)という。

江戸初期(1656年)の徳蔵寺22代住職の印があると言うので、もう少し古いものかもしれない。
この徳蔵寺はどこ?  近くに天台宗の寺である徳蔵寺があるが、そんなに古い寺なのか?

徳蔵寺というと、昔行った城里町の寺を思い出す。

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このような小山の上に地蔵が置かれていたようだが、ここは前方後円墳の地蔵塚古墳の上だという。

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このような階段で上に登れるようになっており、階段の右側に石造地蔵菩薩立像(日限地蔵)の説明板があり、左側に地蔵塚古墳の説明板が置かれている。

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この階段を上ったところに地蔵尊の建屋があるが、この場所が古墳の後円部分で高さは7.2mあり、前方側は高さ3mというのでかなり段差がある。

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こちらが古墳の前方側だ。全長は46m。6世紀の築造とみられる。

昭和56年の調査で、後円部を全周する埴輪列が見つかり、この埴輪は現在小川資料館で展示されている。

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現在も地域の女性たちで毎月24日(旧暦)にあつまっているとのことだ。
こんな千羽鶴なども願い事の思いが伝わる。
「みみっちょさん(耳守神社)」などと共通な願いの思いが伝わってくる。

この日限地蔵を調べると全国にかなりあるらしい。
しかしその始まりは会津若松の西光寺だといい、天正時代(戦国末期)の黒川城(会津城、若松城)の城主(蘆名盛氏)が城の堀から見つかった3体の地蔵菩薩像を寺に日限地蔵として祀ったことに始まるのだそうだ。

この蘆名氏というと江戸崎不動院を調べていた時にかなり教えられた。

三浦氏から興った桓武平氏系列の武将で、三浦半島の三浦氏は常陸大宮の巨木「三浦杉」にその名前を残すと共に、源頼朝が最初に兵を起こした時に味方となって頼朝を房総に逃がして自らは城で討ち死にした。

そしてこの会津の蘆名氏は東北では伊達氏と婚姻関係を結んだり、争ったり、かなり力を持っていたのだが、蘆名盛氏が死去すると嫡男がいないため、二階堂からその子供が蘆名氏を継ぎ(蘆名盛隆)、内部の分裂もあって殺されてしまう。
そしてその子が家督を継ぐがまだ3歳で亡くなってしまい、後を継いだのがこの常陸国の佐竹氏(佐竹義重)の子供であった。

蘆名氏を継承して、蘆名義広を名乗った。

しかしこれも伊達政宗に攻められて会津を逃げ出し常陸国の佐竹氏を頼って、佐竹氏が滅ぼした江戸崎の地をもらって不動院に天海僧正を会津から迎えた。

天海僧正は徳川家康の信頼を受け江戸の街づくりや上野寛永寺から日光の墓所選定や川越の喜多院などと多くの業績を残している。

色々なものがつながってくる。

歴史もあまり詳しくは知らないし、何処までが本当かはわからないが、教科書的な記述に載っていないことにかなり面白い事がいっぱいある。




小美玉・行方地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2016/03/26 22:04
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