鹿島神社(元郷社、旧小川町下馬場)

 昨日紹介した地蔵塚古墳のすぐ近くにかなり大きな神社があった。
「鹿島神社」であるが、長い参道を持ち駐車場もある神社で元郷社であったという。

場所は旧小川町下馬場。
旧小川j高校に近い。

小川と幡谷の方に進んで、幡谷に近い場所になる。
戦国時代までは小川には園部氏が入っており、幡谷にも幡谷氏がいたが、幡谷氏も親鸞を調べていた時にこの幡谷の殿様が親鸞に帰依して弟子(唯信)となったことが知られている。(前に書いた記事参照:二人の唯信房(2)

この辺りでも戦国末期には争いがあったようだ。

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霞ケ浦側(南側)に神社の入口がある。
街道は反対の北側。

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入口部は二股に分かれた中間にある。
上の写真の左へ少し行った場所に地蔵塚古墳がある。

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長い、広い参道を進む。
この参道沿いは「下馬場緑地環境保全地域」に指定されている。

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往古、鹿島の大神東海より霞ヶ浦に入り園部川を遡って馬場村の金輪田に来臨された。
里人ら、これを九殿の森に奉祀したが神慮にかなわず羽木上成山等を経て大同2年現在地に鎮座されたという。
長禄元年(1457年)に小河の城主園部兼房公神田を寄進されて以来,歴代の城主みな先例にならわされた。
慶長17年(1612年)城主戸澤右京大夫安盛公は天正末の兵火で消失した社殿を再建し、続いて三代将軍家光公からは御朱印状が下賜された。
以来小河十二郷大鎮守として尊崇され江戸時代当初は元道神官十一人の社人が常住し、慶安元年制定の祭礼日限帳に基づいて大の祭り小の祭りが連日斎行された。
明治5年郷社に列した。現在の社殿は明治16年改築されて更に昭和2年社殿を銅板に葺替えされた。
(現地看板)

小河=小川

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看板の説明ではよくわからないが大同2年(807年)はわからない古い神社は皆この年だからそれ程意味を持たない。
坂上田村麻呂が蝦夷を征伐して都に戻ったのが802年、その後全国に神社が創建されていく。

清水寺も富士の浅間神社も大同1~2年。

鹿島神社もこの蝦夷征伐後のながらの中でその役割が作られたものだろう。

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毎日記事を書くのもやはりくたびれる。
もう少し書きたいこともあるので続きはまた明日にでも書きます。


小美玉・行方地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2016/03/28 21:22
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