飴買い幽霊伝説とそこに咲く桜
旧新治村(現土浦市)の筑波山麓に、山肌がむき出しになっている採石場がある。
そのすぐ隣にものすごく大きな五輪塔がおかれている。
ここには金嶽神社があるがここの桜も見事である。
小町の里から北条に行くときにいつもこの横を通っているが、桜の花が咲き誇るときは必ず立ち寄っている。
今年も風の会の会報を印刷して4月9日(土)午後に立ち寄った。

ここに置かれている五輪塔は県指定の文化財であるが、高さ3.6mの花崗岩製でこの当時の五輪塔の中ではきわめて大型である。
地綸に「功徳主 頭白上人 大工本郷 永正十二天 二月三日」と刻まれている。
永正十二年=西暦1516年 である。
下の写真でもある程度読むことができる。

頭白上人とはどんな人物だったのだろうか?
この五輪塔は天台宗の名僧「頭白上人」が自分の母親を供養するためにここに建立したものである。

永正十二年は室町時代末期で時代では北条早雲が三浦氏を滅ぼすし、相模を平定した年である。
この辺りは鎌倉御家人で勢力を持っていた小田氏が長い間支配していた場所である。
伝説では、この近くに住んでいた頭白上人の母親は臨月であったが賊によって殺されてしまう。
そして、憐れんだ村人が墓地に埋葬した。
それから少しして、町の飴屋(餅屋)がもう店じまいをしたころに戸をたたく者がいた。
店主が戸を開けると、髪の毛も乱れた一人の女が一文銭を差し出して、
「どうかどうかこれで飴(餅)を売っていただけませんか?」
と悲しげに話してきた。
店主はもう店仕舞をした後なので断ろうとしたが、その姿や恰好を見て、どことなくあわれに思って飴(餅)を売ってあげた。
女はお礼を言って帰って行った。
また次の日も、その次の日も女は飴(餅)を買いにやってきた。
そして6日目に
「もうこれしかお金を持っていませんので、これが最後です」
悲しそうに女はいうと最後の飴(餅)を大事そうに持って力なくとぼとぼと帰って行った。
店主は心配になり、そっと女の後をついて行った。
女は町はずれの墓地のあたりで消えてしまった。
店主は怖くなって、恐る恐る墓地のほうに近づいていくとどこからともなく赤ん坊の泣き声がした。
店主は人を集めてきて墓地の赤ん坊の泣き声のする墓を掘り起こした。
そこには女の亡骸とそのわきで飴(餅)をなめている赤ん坊が発見された。
その時に生まれた赤ん坊は近くの寺に預けられて元気に育ったが、生まれた時から髪の毛が真っ白であった。
その後この赤ん坊は天台宗の名高い高僧となり、「頭白上人」と呼ばれた。
この伝説は各地にある「飴買い幽霊」の話と同じだが、頭白上人は実在の人物と言われ東海村にある十三参りで有名な「村松山 虚空蔵堂」を1487年に再興した名僧として知られている。
村松山 虚空蔵堂は807年に弘法大師によって筑波山の鬼門方向になる北東(丑寅)に建てられたと伝えられる。

頭白上人は生まれ故郷のこの地で村松山 虚空蔵堂再興の29年後に賊に殺された母親を供養するために五輪塔を建立するとともに、千部経をあげて7日間供養を行ったと伝わります。
そして、後の噂によるとこの供養の間に、小田城主が供を連れて鷹狩に馬で通りかかり、この供養に集まっている人々を馬に乗ったまま無礼なふるまいをしたと・・・・
それに怒った頭白上人は
「この大切な儀式を、馬も降りずに無礼なふるまい、断じて許すことはできない。
礼を知らぬそなたらはこれから先ろくなことは起こらないであろう!」
といったとか。
これに怒った小田家は集まった民衆を皆殺しにしてしまった。
小田家に少しの碌を持っていた頭白上人であったが、これ以来小田氏に恨みを持って死んでいった。
それから31年後の1547年に後に常陸国を統一した戦国武将佐竹家18代当主「佐竹義重(鬼義重)」が誕生した。
義重は自らこの頭白上人の生まれ変わりであると称し、宿敵の小田氏との戦いを繰り返し、ついに永禄12年(1569年)、手這坂の戦いにて小田氏治に勝って小田城を奪取したのである。
この戦いのときに活躍したのが石岡の片野城にいた武将「太田資正(三楽斎)」であった。
この片野城跡も太田三楽斎の墓も山桜はらはらと舞い散る山郷の片隅に忘れられたように眠っている。
そのすぐ隣にものすごく大きな五輪塔がおかれている。
ここには金嶽神社があるがここの桜も見事である。
小町の里から北条に行くときにいつもこの横を通っているが、桜の花が咲き誇るときは必ず立ち寄っている。
今年も風の会の会報を印刷して4月9日(土)午後に立ち寄った。

ここに置かれている五輪塔は県指定の文化財であるが、高さ3.6mの花崗岩製でこの当時の五輪塔の中ではきわめて大型である。
地綸に「功徳主 頭白上人 大工本郷 永正十二天 二月三日」と刻まれている。
永正十二年=西暦1516年 である。
下の写真でもある程度読むことができる。

頭白上人とはどんな人物だったのだろうか?
この五輪塔は天台宗の名僧「頭白上人」が自分の母親を供養するためにここに建立したものである。

永正十二年は室町時代末期で時代では北条早雲が三浦氏を滅ぼすし、相模を平定した年である。
この辺りは鎌倉御家人で勢力を持っていた小田氏が長い間支配していた場所である。
伝説では、この近くに住んでいた頭白上人の母親は臨月であったが賊によって殺されてしまう。
そして、憐れんだ村人が墓地に埋葬した。
それから少しして、町の飴屋(餅屋)がもう店じまいをしたころに戸をたたく者がいた。
店主が戸を開けると、髪の毛も乱れた一人の女が一文銭を差し出して、
「どうかどうかこれで飴(餅)を売っていただけませんか?」
と悲しげに話してきた。
店主はもう店仕舞をした後なので断ろうとしたが、その姿や恰好を見て、どことなくあわれに思って飴(餅)を売ってあげた。
女はお礼を言って帰って行った。
また次の日も、その次の日も女は飴(餅)を買いにやってきた。
そして6日目に
「もうこれしかお金を持っていませんので、これが最後です」
悲しそうに女はいうと最後の飴(餅)を大事そうに持って力なくとぼとぼと帰って行った。
店主は心配になり、そっと女の後をついて行った。
女は町はずれの墓地のあたりで消えてしまった。
店主は怖くなって、恐る恐る墓地のほうに近づいていくとどこからともなく赤ん坊の泣き声がした。
店主は人を集めてきて墓地の赤ん坊の泣き声のする墓を掘り起こした。
そこには女の亡骸とそのわきで飴(餅)をなめている赤ん坊が発見された。
その時に生まれた赤ん坊は近くの寺に預けられて元気に育ったが、生まれた時から髪の毛が真っ白であった。
その後この赤ん坊は天台宗の名高い高僧となり、「頭白上人」と呼ばれた。
この伝説は各地にある「飴買い幽霊」の話と同じだが、頭白上人は実在の人物と言われ東海村にある十三参りで有名な「村松山 虚空蔵堂」を1487年に再興した名僧として知られている。
村松山 虚空蔵堂は807年に弘法大師によって筑波山の鬼門方向になる北東(丑寅)に建てられたと伝えられる。

頭白上人は生まれ故郷のこの地で村松山 虚空蔵堂再興の29年後に賊に殺された母親を供養するために五輪塔を建立するとともに、千部経をあげて7日間供養を行ったと伝わります。
そして、後の噂によるとこの供養の間に、小田城主が供を連れて鷹狩に馬で通りかかり、この供養に集まっている人々を馬に乗ったまま無礼なふるまいをしたと・・・・
それに怒った頭白上人は
「この大切な儀式を、馬も降りずに無礼なふるまい、断じて許すことはできない。
礼を知らぬそなたらはこれから先ろくなことは起こらないであろう!」
といったとか。
これに怒った小田家は集まった民衆を皆殺しにしてしまった。
小田家に少しの碌を持っていた頭白上人であったが、これ以来小田氏に恨みを持って死んでいった。
それから31年後の1547年に後に常陸国を統一した戦国武将佐竹家18代当主「佐竹義重(鬼義重)」が誕生した。
義重は自らこの頭白上人の生まれ変わりであると称し、宿敵の小田氏との戦いを繰り返し、ついに永禄12年(1569年)、手這坂の戦いにて小田氏治に勝って小田城を奪取したのである。
この戦いのときに活躍したのが石岡の片野城にいた武将「太田資正(三楽斎)」であった。
この片野城跡も太田三楽斎の墓も山桜はらはらと舞い散る山郷の片隅に忘れられたように眠っている。
> 史実と伝承が混ざり合って面白い話ですね。その地方を理解するのに、それらを頭に刻むのに適しています。
少し多くの人には知られていない話をしてみたくなり書いてみました。
やはり知ったかぶりと言われても、何もないと思われる場所なのにそこにこんな話が眠っているって知ってもらうのに役立ちそうに思います。
お話は史実とその後の作り話や風聞など混ざっていますが、史実以外もみな残して伝えていくのに要な事柄ですね。