大光寺照明院(白鳥の里)
鉾田市の旧大洋村に常陸風土記で「白鳥の里」と言われている場所だといわれているところがあります。
天台宗白鳥山大光寺 照明院(鉾田市中居)がそれである。
「郡家の北三十里のところに、白鳥の里がある。昔、伊久米の天皇(垂仁天皇)の御世に、天より飛び来たった白鳥があった。朝に舞ひ降りて来て、乙女の姿となり、小石を拾ひ集めて、池の堤を少しづつ築き、夕べにはふたたび昇り帰って行くのだが、少し築いてはすぐ崩れて、いたづらに月日はかさむばかりだった。さうしてこの乙女らは、
白鳥の 羽が堤を つつむとも あらふ真白き 羽壊え
(小石を集めて池の堤を作らうとしても、白鳥の羽を抜いて積み上げるやうなもので、この真白き羽はすっかり損はれてしまった。)
かう歌ひ残して天に舞ひ昇り、ふたたび舞ひ降りてくることはなかった。このいはれにより、白鳥の郷と名付けられた。(口訳・常陸国風土記 より)」
群家は鹿島郡(風土記では香島郡)の郡家であり場所は特定されている。
「鹿島神宮境内附郡家跡」(かしまじんぐうけいだいつけたりぐうけあと)(前に書いた記事はこちら)
神宮の南だが、風土記ではもっと昔には沼尾神社付近にあったことが記されている。
当時の1里は300歩(約533m)とすると、郡家から北30里は北へ16kmほどということになるので、鹿島神宮境内附郡家跡からは離れすぎている。そのためここでの解釈は沼尾神社付近に郡家があった時の話と解釈しているものだろう。
何しろこのあたりの地名が「白鳥(しらとり)」と昔から言われてきたようだ。

天台宗白鳥山大光寺 照明院。

寺の入り口に置かれている石像はほとんどが子安観音像で女人講中などの文字が読めるが年代はよく読めない。
一番手前には文政11年(1828)の銘がある念仏供養塔である。

この寺は無住の寺で、誰もいない。

風土記に書かれている白鳥の里は特定が難しく、この土地に残されている地名(白鳥=しらとり)が決め手の一つとなっている。
上の説明看板では「弥生時代の人々が、水田を開拓し用水池を造成したとき、幾多の苦労があった。それを穀霊の象徴である白鳥に託して語り伝えた美しくも悲しい説話」と述べている。

この寺の前の道路の角には古びた石造がおかれている。庚申塔である。
右側の塔には「惣村講中」と記されている。
左側は邪鬼の上にのった青面金剛の庚申塔で三猿は描かれていないようだ。
天台宗白鳥山大光寺 照明院(鉾田市中居)がそれである。
「郡家の北三十里のところに、白鳥の里がある。昔、伊久米の天皇(垂仁天皇)の御世に、天より飛び来たった白鳥があった。朝に舞ひ降りて来て、乙女の姿となり、小石を拾ひ集めて、池の堤を少しづつ築き、夕べにはふたたび昇り帰って行くのだが、少し築いてはすぐ崩れて、いたづらに月日はかさむばかりだった。さうしてこの乙女らは、
白鳥の 羽が堤を つつむとも あらふ真白き 羽壊え
(小石を集めて池の堤を作らうとしても、白鳥の羽を抜いて積み上げるやうなもので、この真白き羽はすっかり損はれてしまった。)
かう歌ひ残して天に舞ひ昇り、ふたたび舞ひ降りてくることはなかった。このいはれにより、白鳥の郷と名付けられた。(口訳・常陸国風土記 より)」
群家は鹿島郡(風土記では香島郡)の郡家であり場所は特定されている。
「鹿島神宮境内附郡家跡」(かしまじんぐうけいだいつけたりぐうけあと)(前に書いた記事はこちら)
神宮の南だが、風土記ではもっと昔には沼尾神社付近にあったことが記されている。
当時の1里は300歩(約533m)とすると、郡家から北30里は北へ16kmほどということになるので、鹿島神宮境内附郡家跡からは離れすぎている。そのためここでの解釈は沼尾神社付近に郡家があった時の話と解釈しているものだろう。
何しろこのあたりの地名が「白鳥(しらとり)」と昔から言われてきたようだ。

天台宗白鳥山大光寺 照明院。

寺の入り口に置かれている石像はほとんどが子安観音像で女人講中などの文字が読めるが年代はよく読めない。
一番手前には文政11年(1828)の銘がある念仏供養塔である。

この寺は無住の寺で、誰もいない。

風土記に書かれている白鳥の里は特定が難しく、この土地に残されている地名(白鳥=しらとり)が決め手の一つとなっている。
上の説明看板では「弥生時代の人々が、水田を開拓し用水池を造成したとき、幾多の苦労があった。それを穀霊の象徴である白鳥に託して語り伝えた美しくも悲しい説話」と述べている。

この寺の前の道路の角には古びた石造がおかれている。庚申塔である。
右側の塔には「惣村講中」と記されている。
左側は邪鬼の上にのった青面金剛の庚申塔で三猿は描かれていないようだ。
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