多気太郎(2)
つくば市北条の多気太郎の紹介をしています。
さて、この多気太郎って誰? と思われている人が多いでしょう。
少し歴史を紹介します。
平安時代に桓武天皇の曾孫であるとされる「高望王(たかもちおう)」が、寛平元年(889年)5月13日、宇多天皇の勅命により平氏を賜与されて民間に降下し、(桓武)平氏が始まります。
この高望王の長男が国香で二男が良兼、三男が良将です。千葉などでよく名前を聞く「良文」は五男といわれています。
そして昌泰元年(898年)に上総介に任じられて、上総国に国香、良兼、良将の3人を連れてやってきます。
そして国香は常陸大掾であった地元の豪族であった源護(みなもとのまもる)の娘と結婚して常陸国に勢力を張っていきます。
そして真壁郡東石田を(現・茨城県筑西市)本拠地とし常陸大掾職を引き継いでいくことになります。
国香は平将門との争いで死んでしまいますが、その子である貞盛が藤原秀郷と共に将門を打ち取ります。
この貞盛の後を継いだ維幹が、筑波郡水守(みもり)に住んでいたが、990年頃にこの北条の多気に移り、多気城を築いたといわれています。
今「多気太郎」といわれているのはこの多気氏初代の維幹(これもと)から数えて6代目の多気義幹のことで、代々常陸大掾(だいじょう)職を踏襲していきますので「大掾氏(多気の大掾)」と呼ばれます。
しかし、鎌倉幕府ができ、1193年に大掾職の座を狙っていた鎌倉守護の八田(小田)知家が策謀を巡らし、源頼朝へ曽我兄弟の仇討ち事件の混乱につけ入り、「義幹謀叛の噂あり」と讒言をし、義幹は大掾職を解かれ失脚し、多気氏が滅びたのです。
鎌倉に呼びつけられた義幹はまんまと罠にはまってしまい、領地をすべて没収され駿河国に謹慎となりそこで没したといわれています。

北条の商店会の通りを少し先に進んだところからこんな小さな看板のあるところの細い道を少し曲がったところに「多気太郎義幹」とものといわれる五輪塔があります。

下記の看板の説明によると、駿河国に預けられていて無念のうちに没した義幹の霊骸をこの地に持ち帰って葬ったようです。

石岡は常陸国の国府であり、この地が政務の拠点ではあったようですが、この時はまだ大掾氏の城はありません。
この多気太郎義幹の二男茂幹が芹沢氏の基になっています。
さて、この多気太郎って誰? と思われている人が多いでしょう。
少し歴史を紹介します。
平安時代に桓武天皇の曾孫であるとされる「高望王(たかもちおう)」が、寛平元年(889年)5月13日、宇多天皇の勅命により平氏を賜与されて民間に降下し、(桓武)平氏が始まります。
この高望王の長男が国香で二男が良兼、三男が良将です。千葉などでよく名前を聞く「良文」は五男といわれています。
そして昌泰元年(898年)に上総介に任じられて、上総国に国香、良兼、良将の3人を連れてやってきます。
そして国香は常陸大掾であった地元の豪族であった源護(みなもとのまもる)の娘と結婚して常陸国に勢力を張っていきます。
そして真壁郡東石田を(現・茨城県筑西市)本拠地とし常陸大掾職を引き継いでいくことになります。
国香は平将門との争いで死んでしまいますが、その子である貞盛が藤原秀郷と共に将門を打ち取ります。
この貞盛の後を継いだ維幹が、筑波郡水守(みもり)に住んでいたが、990年頃にこの北条の多気に移り、多気城を築いたといわれています。
今「多気太郎」といわれているのはこの多気氏初代の維幹(これもと)から数えて6代目の多気義幹のことで、代々常陸大掾(だいじょう)職を踏襲していきますので「大掾氏(多気の大掾)」と呼ばれます。
しかし、鎌倉幕府ができ、1193年に大掾職の座を狙っていた鎌倉守護の八田(小田)知家が策謀を巡らし、源頼朝へ曽我兄弟の仇討ち事件の混乱につけ入り、「義幹謀叛の噂あり」と讒言をし、義幹は大掾職を解かれ失脚し、多気氏が滅びたのです。
鎌倉に呼びつけられた義幹はまんまと罠にはまってしまい、領地をすべて没収され駿河国に謹慎となりそこで没したといわれています。

北条の商店会の通りを少し先に進んだところからこんな小さな看板のあるところの細い道を少し曲がったところに「多気太郎義幹」とものといわれる五輪塔があります。

下記の看板の説明によると、駿河国に預けられていて無念のうちに没した義幹の霊骸をこの地に持ち帰って葬ったようです。

石岡は常陸国の国府であり、この地が政務の拠点ではあったようですが、この時はまだ大掾氏の城はありません。
この多気太郎義幹の二男茂幹が芹沢氏の基になっています。
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