加倉井砂山の墓
昨日紹介した日新塾の加倉井砂山の墓が帰り道の途中にあったので立ち寄った。
ここは水戸市成沢町だが、すぐ南側の国道50号線に近い場所に加倉井町がある。
先祖は、甲斐国から鎌倉時代に水戸の加倉井に所領を得て江戸氏の家老として活躍したそうだ。
しかし戦国末期に佐竹氏に敗れて、成沢に土地を得て農業を初めて代々庄屋を務めた家柄だという。
砂山は二男であったが、長男が先の死亡してしまったために16歳で家督を相続し、父が開いていた私塾を引き継いだ。
思想的にも偏ることなく、いろいろな方面に知人・友人がいたようだ。
藤田小四郎などもこの塾に通った一人だという。
水戸藩では30年間に、3000人もの門人を輩出したというかなりの規模の塾だった。

通り沿いに「加倉井砂山先生墓入口」とあり、細い道が奥の林の中に続いている。

この林の中に墓があるらしい。

立派な墓所が現れた。

加倉井砂山の墓(向かって右側)とその妻の墓だという。

また少し離れて並ぶように「鹿島神社」があった。


ここは水戸市成沢町だが、すぐ南側の国道50号線に近い場所に加倉井町がある。
先祖は、甲斐国から鎌倉時代に水戸の加倉井に所領を得て江戸氏の家老として活躍したそうだ。
しかし戦国末期に佐竹氏に敗れて、成沢に土地を得て農業を初めて代々庄屋を務めた家柄だという。
砂山は二男であったが、長男が先の死亡してしまったために16歳で家督を相続し、父が開いていた私塾を引き継いだ。
思想的にも偏ることなく、いろいろな方面に知人・友人がいたようだ。
藤田小四郎などもこの塾に通った一人だという。
水戸藩では30年間に、3000人もの門人を輩出したというかなりの規模の塾だった。

通り沿いに「加倉井砂山先生墓入口」とあり、細い道が奥の林の中に続いている。

この林の中に墓があるらしい。

立派な墓所が現れた。

加倉井砂山の墓(向かって右側)とその妻の墓だという。

また少し離れて並ぶように「鹿島神社」があった。


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