大井神社(水戸市飯富町)
昨日紹介した水戸市藤井町にある「藤内神社」の創建が養老5年(721年)で、その祭神が「経津主」というこのあたりでは珍しい香取神宮の神と同じ。
今日はその少し南の飯富町にあるやはりかなり古い古社「大井神社」を紹介します。
社伝によると、第10代崇神天皇の時代に、崇神天皇の皇子・豊城入彦命の命によって建借馬命(タケカシマノミコト)この地にやってきた。
そして、そして長者山に館を構え、その北東にあたるこの飯富町の場所に神社を建てて天照大神を祀ったのが創祀だといいます。
今はこの神社の祭神はこの「建借馬命(タケカシマノミコト、常陸国風土記では建借間命)」で、建借馬命は初の古代那賀(仲)国造になった武人だ。
崇神天皇の時代は推定するに、3世紀から4世紀初めと考えられる。
建借馬命は長者山に館をかまえたとあるが、長者山は台渡里近郊である。
ここに那賀郡の郡衙があった。
日本書紀では崇神天皇は二人の息子である豊城命(豊城入彦命)と活目尊(いくめのみこと)に対して、自分の後継者をどちらにするかをそれぞれが見る夢のお告げで決まるといった。
豊城命は「御諸山(三輪山)に登り、東に向かって槍や刀を振り回す夢を見た」と答えた。
活目尊は「御諸山(三輪山)に登り、四方に縄を張って雀を追い払う夢を見た」と答えた。
その結果、弟の活目尊が後継となり、豊城命を武器を使って東国を治めさせるために派遣した。
この豊城命の墓といわれるものが石岡にある。柿岡の「丸山古墳」だ。

この大井神社は一段高い台地の上にあり、東側に入口鳥居がある。
そして階段を上って神社に参拝するのだが、私は西側の神社と同じ台地にある西口から入った。

こちらが東側の正規の入り口。

かなり立派な拝殿。


こちらが本殿。

大井神社という一見単純そうな名前だが、この大井神社と地名の飯富町のいわれがよくいわれており、
建借馬の出であるとされる肥の国(九州)の意富臣(おふのおみ)から、この神社は意冨比(おほひ)神社と言った。
それが転じて意冨比(おほひ)→おおい→大井となり、地名も意冨→飫冨→飯富と変じたといわれている。
このあたりの歴史はかなり面白いが、石岡も負けてはいない。
もう少し探ってみよう。
今日は銚子に仕事で行く予定だったが、急に相手方の都合でキャンセルとなった。
おかげでこんな記事も書く時間が持てた。
やはり少し時間がなければ記事をまとめていくことはできない。
今日はその少し南の飯富町にあるやはりかなり古い古社「大井神社」を紹介します。
社伝によると、第10代崇神天皇の時代に、崇神天皇の皇子・豊城入彦命の命によって建借馬命(タケカシマノミコト)この地にやってきた。
そして、そして長者山に館を構え、その北東にあたるこの飯富町の場所に神社を建てて天照大神を祀ったのが創祀だといいます。
今はこの神社の祭神はこの「建借馬命(タケカシマノミコト、常陸国風土記では建借間命)」で、建借馬命は初の古代那賀(仲)国造になった武人だ。
崇神天皇の時代は推定するに、3世紀から4世紀初めと考えられる。
建借馬命は長者山に館をかまえたとあるが、長者山は台渡里近郊である。
ここに那賀郡の郡衙があった。
日本書紀では崇神天皇は二人の息子である豊城命(豊城入彦命)と活目尊(いくめのみこと)に対して、自分の後継者をどちらにするかをそれぞれが見る夢のお告げで決まるといった。
豊城命は「御諸山(三輪山)に登り、東に向かって槍や刀を振り回す夢を見た」と答えた。
活目尊は「御諸山(三輪山)に登り、四方に縄を張って雀を追い払う夢を見た」と答えた。
その結果、弟の活目尊が後継となり、豊城命を武器を使って東国を治めさせるために派遣した。
この豊城命の墓といわれるものが石岡にある。柿岡の「丸山古墳」だ。

この大井神社は一段高い台地の上にあり、東側に入口鳥居がある。
そして階段を上って神社に参拝するのだが、私は西側の神社と同じ台地にある西口から入った。

こちらが東側の正規の入り口。

かなり立派な拝殿。


こちらが本殿。

大井神社という一見単純そうな名前だが、この大井神社と地名の飯富町のいわれがよくいわれており、
建借馬の出であるとされる肥の国(九州)の意富臣(おふのおみ)から、この神社は意冨比(おほひ)神社と言った。
それが転じて意冨比(おほひ)→おおい→大井となり、地名も意冨→飫冨→飯富と変じたといわれている。
このあたりの歴史はかなり面白いが、石岡も負けてはいない。
もう少し探ってみよう。
今日は銚子に仕事で行く予定だったが、急に相手方の都合でキャンセルとなった。
おかげでこんな記事も書く時間が持てた。
やはり少し時間がなければ記事をまとめていくことはできない。
コメント