古代に夢をはせて
今日はここまで書いてきた「藤内神社」「大井神社」「有賀神社」の三つの神社の関係を少し眺めてみたくなっった。
下の地図に水戸市の西北部の各神社の位置関係を示します。
西側にある山が水戸では一番高いという朝房山(現地の山には朝望山とある:標高はたったの201m位)で、常陸風土記で書かれている晡時臥山(くれふしやま)と考えられている山だ。
この山が笠間市、城里町、水戸市の3つの市境にある。
そして地図の右側(東)には大きな那珂川が流れ、丁度蛇の蛇行のようにくねっているところに台渡里遺跡、台渡里廃寺跡、長者山など古代那賀国の中心地(国造が館を構えた?)あたりで、律令制の時に整備された官道の駅家(うまや)があった。(那珂川の向こうにも駅家がありここから官道は海沿いに行く道と、そのまま北に行き東山道と連結する道の二手に分かれたようだ。
常陸国の国府からこの台渡里駅家までは、鹿の子遺跡のあたりから現在の常磐高速の東側を沿うように真っ直ぐな道が伸びていたものと思われる。
ここはまさに直道(ひたみち)=常陸?と言えなくもない。

少し地図を見ながら時代をさかのぼって考えてみよう。
3世紀初め頃、建借間(たけかしま)命は、祟神(すじん)天皇の皇子で東国征伐にやってきた「豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)」の命を受け、さらに北の征服に使わされました。
3世紀と書いたがもう少し後だろう。この建借間命の墓といわれる古墳が水戸にある愛宕山古墳で築造は5世紀後半から6世紀初め頃と言われている。
最初は霞ケ浦の南端側の浮島あたりで、湖(当時は内海)の向こう側(潮来あたり)にいる部族が敵か味方かを煙の流れる方向で占った。
それで敵と分かって軍団は船で向こう岸に着き、敵をやっつけようと思ったら、原住民は皆、すみかである穴に隠れて出てこなくなってしまう。
そこで知恵を絞って部下たちに浜辺でにぎやかな歌や祭りを連日連夜続けさせたら、原住民もつられて見物に出てくるようになった。
そこを一網打尽にしてみんな殺してしまったのです。
そこから、北浦を通って?那珂川に入り込み、川を北上します。
丁度よい肥沃な高台(台渡里)を見つけて館を建て、そこをさらに北への征服の根拠地にします。
建借間命は九州の部族の出身で神武天皇の御子「神八井耳(かむやゐみみ)命」の末裔といわれ、「意富(おふ・おほ)臣」の名の部族の者とされており、オホ氏(多氏)と同じ部族の人物と考えられます。
そのため、この館から北の飯富町に大井神社を建てて、自分たちの祖をまつったものと思われます。
(飯富も大井もともに自分たちの種族の名前から来ている?)
さて、その後はどうなるのでしょうか?
一つはここから海沿いを北上したところの日立の手前の大甕(おおみか)神社と鹿島神宮にヒントがあります。
鹿島神宮の境内に摂社である「高房神社」があります。この神社を調べていて知ったことですが、高房神社は常陸国二の宮である「静(しず)神社」とも深くかかわっています。
祭神は「建葉槌神(たけはづちのかみ)」です。
日本建国時にこの鹿島・香取の地を制圧して大和朝廷はさらに北を目指しました。
しかし、北の方には星を祀る信仰を持った一族が住んでいました。
「天香香背男(あめのかがせお)」です。
タケミカヅチの武力でも制圧できない大きな力を持っていました。このため、この天香香背男を倒すために「建葉槌(たけはづち)」が使わされました。
そして、日立市の手前の大甕(おおみか)近辺に香香背男という蝦夷の大きな勢力が存在していたのでしょう。
建葉槌はこの「香香背男」を制圧したのです。
神社では大きな「宿魂石」にその力を封じ込めたといわれています。
そして「大甕神社」にこの建葉槌神(たけはづちのかみ)が祀られました。
この建葉槌神はまた「倭文神(しずりのかみ)」とも呼ばれ、織物の神様としても知られます。
この倭文神として祀られているのが常陸国二の宮である「静神社」なのです。
ただこの制圧した時代がよくわかっていない。6世紀半ば過ぎころではないかと推察されるが・・・
(5世紀半ば過ぎを6世紀半ば過ぎに訂正しました:2016.30)
ところでもう一つの物部の経津主命を祀る「藤内神社」はというと、こちらは年代が書かれていて、
養老5年(721年)4月12日の暁、朝望(房)山(経津主命の神山)の峰に霊光が輝き、その光が藤内郷を指して降りこのところにとどまったとされる。 これはもう律令制の始まったころになる。8世紀始めだ。
さて時間が無くなったので、この続きは明日にしよう。
下の地図に水戸市の西北部の各神社の位置関係を示します。
西側にある山が水戸では一番高いという朝房山(現地の山には朝望山とある:標高はたったの201m位)で、常陸風土記で書かれている晡時臥山(くれふしやま)と考えられている山だ。
この山が笠間市、城里町、水戸市の3つの市境にある。
そして地図の右側(東)には大きな那珂川が流れ、丁度蛇の蛇行のようにくねっているところに台渡里遺跡、台渡里廃寺跡、長者山など古代那賀国の中心地(国造が館を構えた?)あたりで、律令制の時に整備された官道の駅家(うまや)があった。(那珂川の向こうにも駅家がありここから官道は海沿いに行く道と、そのまま北に行き東山道と連結する道の二手に分かれたようだ。
常陸国の国府からこの台渡里駅家までは、鹿の子遺跡のあたりから現在の常磐高速の東側を沿うように真っ直ぐな道が伸びていたものと思われる。
ここはまさに直道(ひたみち)=常陸?と言えなくもない。

少し地図を見ながら時代をさかのぼって考えてみよう。
3世紀初め頃、建借間(たけかしま)命は、祟神(すじん)天皇の皇子で東国征伐にやってきた「豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)」の命を受け、さらに北の征服に使わされました。
3世紀と書いたがもう少し後だろう。この建借間命の墓といわれる古墳が水戸にある愛宕山古墳で築造は5世紀後半から6世紀初め頃と言われている。
最初は霞ケ浦の南端側の浮島あたりで、湖(当時は内海)の向こう側(潮来あたり)にいる部族が敵か味方かを煙の流れる方向で占った。
それで敵と分かって軍団は船で向こう岸に着き、敵をやっつけようと思ったら、原住民は皆、すみかである穴に隠れて出てこなくなってしまう。
そこで知恵を絞って部下たちに浜辺でにぎやかな歌や祭りを連日連夜続けさせたら、原住民もつられて見物に出てくるようになった。
そこを一網打尽にしてみんな殺してしまったのです。
そこから、北浦を通って?那珂川に入り込み、川を北上します。
丁度よい肥沃な高台(台渡里)を見つけて館を建て、そこをさらに北への征服の根拠地にします。
建借間命は九州の部族の出身で神武天皇の御子「神八井耳(かむやゐみみ)命」の末裔といわれ、「意富(おふ・おほ)臣」の名の部族の者とされており、オホ氏(多氏)と同じ部族の人物と考えられます。
そのため、この館から北の飯富町に大井神社を建てて、自分たちの祖をまつったものと思われます。
(飯富も大井もともに自分たちの種族の名前から来ている?)
さて、その後はどうなるのでしょうか?
一つはここから海沿いを北上したところの日立の手前の大甕(おおみか)神社と鹿島神宮にヒントがあります。
鹿島神宮の境内に摂社である「高房神社」があります。この神社を調べていて知ったことですが、高房神社は常陸国二の宮である「静(しず)神社」とも深くかかわっています。
祭神は「建葉槌神(たけはづちのかみ)」です。
日本建国時にこの鹿島・香取の地を制圧して大和朝廷はさらに北を目指しました。
しかし、北の方には星を祀る信仰を持った一族が住んでいました。
「天香香背男(あめのかがせお)」です。
タケミカヅチの武力でも制圧できない大きな力を持っていました。このため、この天香香背男を倒すために「建葉槌(たけはづち)」が使わされました。
そして、日立市の手前の大甕(おおみか)近辺に香香背男という蝦夷の大きな勢力が存在していたのでしょう。
建葉槌はこの「香香背男」を制圧したのです。
神社では大きな「宿魂石」にその力を封じ込めたといわれています。
そして「大甕神社」にこの建葉槌神(たけはづちのかみ)が祀られました。
この建葉槌神はまた「倭文神(しずりのかみ)」とも呼ばれ、織物の神様としても知られます。
この倭文神として祀られているのが常陸国二の宮である「静神社」なのです。
ただこの制圧した時代がよくわかっていない。6世紀半ば過ぎころではないかと推察されるが・・・
(5世紀半ば過ぎを6世紀半ば過ぎに訂正しました:2016.30)
ところでもう一つの物部の経津主命を祀る「藤内神社」はというと、こちらは年代が書かれていて、
養老5年(721年)4月12日の暁、朝望(房)山(経津主命の神山)の峰に霊光が輝き、その光が藤内郷を指して降りこのところにとどまったとされる。 これはもう律令制の始まったころになる。8世紀始めだ。
さて時間が無くなったので、この続きは明日にしよう。
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