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古代に夢をはせて(2)

 昨日途中まで書いた続きです。

また昨日、建借間命が3世紀とか5世紀初めとか書いたのですが、もう少し後で、西暦500年前後(5世紀後半から6世紀初め頃)の人物と考えられます。訂正します。

この初の那賀(仲)国造となる武人「建借間命(タケカシマノミコト)」は九州の種族(多氏)の人物とみられています。
その根拠は
1)今の潮来に舟で渡った時に、住処の穴に逃げ込んでしまった原住民を7日7夜の歌と踊りでおびき出しますが、この時にうたったのが九州佐賀地方の歌「杵島唱曲」だといいます。
2)建借間命の墓とされる愛宕山古墳(水戸市愛宕町:136.5mの前方後円墳).の出土物で王冠などが見つかっていますが、これが九州の出土品の特徴と一致するといいます。
3)潮来の大生郷(大生神社、古墳)などがこの一族のかかわりが考えられます。(元鹿島とも言われます)

そうすると鹿島神宮(常陸風土記では香島の大神)に最強の武人といわれる武甕槌(タケミカヅチ)という神話にしか登場しない神を祀っているのも実際はタケカシマと同一とするとまずいことになるために創造された神かもしれません。


木葉下

さて、今日はそちらの話ではなく、朝房山の東側の古墳地帯の話です。
私はなんとなくかなり前から石岡から真っ直ぐ北上し、城里町の石塚で巨大な崖に直面するこの石塚街道が気になっています。

木葉下(あぼっけ)というかなり珍しい名前の地名があり、昔からいろいろな謂れが考えられています。
アイヌ語からハケ、パッケ、バッケなどの崖の名前に由来するという説を何となく信じていたのですが、通ってみるとこれが崖のある地名とする場所かと疑問を覚えました。

そして今ではこの場所から7世紀~8世紀ころの須恵器の窯跡が多数見つかっており、どうも韓国南部の昔からの言葉で「焼き物を焼く人たち」というような意味がありそうだということを聞きました。

この朝鮮半島南部の人たちがこの地にやってきて焼き物を焼いたのでしょう。
石岡の瓦会などの古代の窯跡も同じような種族だったのではないかと思います。

そばの古墳公園(牛伏古墳群)には多くの古墳がありますが、この古墳は5世紀~6世紀末頃の築造と思われます。

とうも九州の多氏とは別な人種がたくさんいたように思います。

この石塚街道をさらに進むと石塚で大きな崖を下って下の低地にでます。
地名は圷(あくつ)です。そしてその先の那珂川との合流地点付近が阿波山、粟となります。

常陸風土記では那珂川は「粟川」と書かれています。

徳島の阿波も昔は「粟」と書きました。
阿波の忌部氏(いんべうじ)がここまでやってきたのでしょうか。

想像は膨らみます。

阿波山にある阿波山上神社は「スクナヒコナ」を祀る神社です。
大国主とともに国造りをした小人のスクナヒコナは言葉もわからずガガイモの舟で日本にやってきた異国人です。
でも薬の技術や温泉掘り、金の採掘などに多くの知識を持っていました。

これは朝鮮半島から渡ってきた人物でしょう。

さて、想像はあくまで想像で、先には進みません。

上の地図には大足(おおだら)という地名を載せました。
ダイダラボッチがここにいたという伝説がこの漢字から生まれました。
そして朝房山が昔はもっと南にあって、この大足地区で日がさす時間が短く穀物が良く採れないので、朝房山をダイダラボッチが北の方にうごかしたとの伝説が生まれました。

石岡にも大足(おおだら)という地名が八郷の太田地区にあります。
どうも足跡のような広い低地は砂鉄をとって製鉄していた跡ではないかと言われます。

好き勝手に想像するのは楽しいですね。

古代に夢をはせて | コメント(0) | トラックバック(0) | 2016/10/30 20:41
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