古代に夢をはせて(3)

 この記事もまとまらないので終わりにしようと思っていましたが、もう少し石岡との関係を書いておきたいと思い、少しだけ続けます。

有賀神社や古墳公園、木葉下などの一帯から少し南西方向に笠間市小原という場所があります。

地図の左下の場所です。

藤内神社


ここに山王塚古墳という古墳がありますが、ちょうど常磐線の工事にひっかり、もっと大きかったはずの古墳が小さくなってしまいました。
残された部分の長さが40mですので、元はこの倍くらいの大きさがあったのではないかと思われます。

このあたりに古代茨城郡の郡衙が置かれたと推察されるのです。

そして再編されることになって、ここは那賀郡に編入し、茨城郡の郡衙を現在の石岡市小目代、貝地の近くに移したと考えられます。

そのため、朝房山に相当する山として竜神山を信仰の山に見立てています。
三輪山の伝説もそっくりこちらに移しているようです。
片岡の地名もあります。

移した時期は茨城廃寺の建設時期より少し前でしょうから西暦650年前後ではないかと思われます。

茨城廃寺の発掘調査で見つかった瓦などに「茨寺」とか「茨木寺」という文字が残されていますので、その当時は「茨城」ではなく「茨木」だったと思われます。

もともと石岡の「茨城」はバラキと発音しますが、茨木と昔は書いたと聞いたことがあります。
それがいつの間にか茨城県の名前に合わせて「茨城」となり、読みはバラキとなっていったようです。

県名の茨城もやはり「おお」一族の黒坂命の賊(もともと住んでいた縄文人)をやっつけた古事によるものですので、茨で城を築いたなどと発音からではなく漢字がすでにつかわれていた事になります。

しかしその前は古事記では茨木国造、平安時代中期に書かれた和名抄(いわゆる漢和辞典)では「牟波良支(むばらき)」と訓じています。
これを間違いとする人もいるようだが、やはり初期のうちは「むばらき」発音したのであろう。

むばら⇒おばら に転じたというわけです。

この小原に関して、調べていて、次のような話を知った。

「北奥の戦国大名和賀氏の重臣に小原氏という人物がいた。この小原氏は一説では千葉房総の里見氏(南総里見八犬伝の里見氏)一族がこの小原に住んでいたことがあり、「大茨(おばら)氏」を名乗っていたという。途中で大茨から小原に名前を変えたというが、これも良くはわからない。

この場所は那珂川ではなく涸沼川の支流が近くを流れている。

涸沼も昔はかなり大きな汽水湖で「阿多可奈(あたかな)湖」があったとされる。

水戸・茨城・ひたちなか | コメント(0) | トラックバック(0) | 2016/10/31 23:05
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