古代に夢をはせて(6)-鹿の子から五万堀官道

 石岡の鹿の子遺跡は常磐高速道路の工事の時に掘り返して発掘され、多くの住居跡や漆紙文書などが見つかり、地下の正倉院と呼ばれたりしています。

しかし、ここは蝦夷征伐のための武器供給の拠点でした。

見つかった文書などから奈良時代半ばから平安時代初期頃(西暦750年頃から900年頃)にここから東北に向けて多くの人も武器も送り出されたものと考えられます。

このため、現在の高速道路に沿うように広い官道(両端に溝を持つ)が真っ直ぐに水戸の台渡里(延喜式駅家では河内駅)まで続いていました。

この官道はその後廃れ、土で埋まり、一部は鎌倉時代にまた作られたりしたようです。

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見つかった五万堀官道の発掘場所。
ここの場所は石岡からは石塚街道(県道52号線)で涸沼川を「仁古田」の橋を渡り、その先の十字路の信号を左折すると、常磐高速の友部サービスエリア(スマートインター併設)に出るが、この信号から南西方向に斜めに細い道が続いている。

道路の両側には側溝が掘られ、側溝中心間の幅で6~11mで、7世紀後半のものから10世紀にわたって数種類の道路が跡が見られた。幅の広い程時代が古いという。

鹿の子遺跡で見つかっている文書などから、武器工場はもっと古くできていたようなので、この官道は少し後に、いろいろな用途で作られたものなのだろう。

延喜式(927年完成)に書かれている駅家(うまや)の名前はこの先も東山道につながるように続いているので、かなりの人力を使って道を掘ったと思われます。

そののち、ここは五万堀などと呼ばれ、八幡太郎の軍勢が5万人集まったなどと話はそちらにばかり発展してしまいます。

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今もたぶんこの官道が通ったであろう場所を掘れば官道跡が見つかるのではないかと思われます。

この記事ももう3年ほど前に書いたものと基本的には変わりません。
少し思い出しながら時代考証してみています。

古代に夢をはせて | コメント(0) | トラックバック(0) | 2016/11/06 22:43
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