玉造城跡
戦国時代末期まで400年間行方地方で勢力を拡大した「行方四頭」(行方=小高、島崎、麻生、玉造)の四男の玉造氏の築いた城跡があると知って立ち寄った。
何度か前に来たことがある大山守をしていた「大塲家」屋敷の裏山がこの城山だった。

大塲家の脇の道を山の方に入っていくと土塁の跡などがよくわかる山になっているが、内部には入り込めない。

ぐるっと回ったところに説明看板が置かれていた。


これによればこの城が築かれたのは室町時代中期で、天正19年の南方33館が佐竹氏に一度に殺された年までの130年ほどだったようだ。
この時の玉造氏やその関連諸氏の手賀氏などが滅んだあと、この部下たちはこの時以降どうなったのか?
その一端を窺えるのがこの大塲(おおば)家の歴史である。
玉造氏が滅んだあと、ここには当然佐竹氏の支配下に置かれた。
しかし佐竹氏が秋田に転封となるとここは水戸藩の管理するところとなった。
水戸藩としては江戸への物流(水運)の拠点として、この地や小川などの霞ケ浦の港町を抑える必要があったものと思われる。
大塲家は玉造氏の家老を務めていた家柄だったようだが、水戸徳川家の支配になってからも、徳川の家臣になりこの地方の取りまとめを任されていたようだ。
大山守(水戸藩の所有する山などを管理する職、御留川守などとおなじ)としての職を任じられて、まわりの庄屋などを取りまとめて税(米など)なども一手にまとめていたようである。
このあたりはコメの石高も多かったようだ。
江戸時代は水戸藩の領地は小川、玉造地方と間に麻生藩を挟んで潮来地区などを管理していて、大山守の所轄範囲は結構広かったようである。


ところで前に来た時より大場家の前の駐車場などがかなり広くなり見学者用の設備もだいぶ良くなっていた。
調べてみると、「茨城県指定有形文化財大山守大場家郷士屋敷は平成24年3月11日、茨城県より公益 財団法人の認定を受け、公益財団法人大山守大場家保存協会が管理、運営することに なりました」と書かれていましたので、映画の撮影などにも利用されたりして、家屋の修理なども積極的にされたのでしょう。
何度か前に来たことがある大山守をしていた「大塲家」屋敷の裏山がこの城山だった。

大塲家の脇の道を山の方に入っていくと土塁の跡などがよくわかる山になっているが、内部には入り込めない。

ぐるっと回ったところに説明看板が置かれていた。


これによればこの城が築かれたのは室町時代中期で、天正19年の南方33館が佐竹氏に一度に殺された年までの130年ほどだったようだ。
この時の玉造氏やその関連諸氏の手賀氏などが滅んだあと、この部下たちはこの時以降どうなったのか?
その一端を窺えるのがこの大塲(おおば)家の歴史である。
玉造氏が滅んだあと、ここには当然佐竹氏の支配下に置かれた。
しかし佐竹氏が秋田に転封となるとここは水戸藩の管理するところとなった。
水戸藩としては江戸への物流(水運)の拠点として、この地や小川などの霞ケ浦の港町を抑える必要があったものと思われる。
大塲家は玉造氏の家老を務めていた家柄だったようだが、水戸徳川家の支配になってからも、徳川の家臣になりこの地方の取りまとめを任されていたようだ。
大山守(水戸藩の所有する山などを管理する職、御留川守などとおなじ)としての職を任じられて、まわりの庄屋などを取りまとめて税(米など)なども一手にまとめていたようである。
このあたりはコメの石高も多かったようだ。
江戸時代は水戸藩の領地は小川、玉造地方と間に麻生藩を挟んで潮来地区などを管理していて、大山守の所轄範囲は結構広かったようである。


ところで前に来た時より大場家の前の駐車場などがかなり広くなり見学者用の設備もだいぶ良くなっていた。
調べてみると、「茨城県指定有形文化財大山守大場家郷士屋敷は平成24年3月11日、茨城県より公益 財団法人の認定を受け、公益財団法人大山守大場家保存協会が管理、運営することに なりました」と書かれていましたので、映画の撮影などにも利用されたりして、家屋の修理なども積極的にされたのでしょう。
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