玉造郷校跡
昨日紹介した戦国時代まで玉造城があった山の一角に「玉造郷校」があったそうです。
水戸藩の郷校の中では最も遅くできたようです。
前にも潮来の延方郷校、潮来郷校、そして小川郷校などを紹介しました。

大山守をしていた「大塲家」屋敷の隣の裏山です。
屋敷の横の道を上るとすぐに右側に案内板があります。

少し奥に入るとすぐ「玉造郷校跡」の標識が置かれています。
少し空き地と隣には新しいお家もできています。

安政5年の開校というので、潮来郷校が前年(安政4年)1月の開校ですからそれよりも後です。
医学はなく教えるのは武術、砲術、講釈など。
多くが砲術の受講者だという。
ここに芹沢鴨や平間 重助もいたともいうが、潮来郷校でも名前が出てきたので良くわからない。

この場所が天狗党の玉造勢の終結場所になったようです。
そのために郷校は天狗党の乱のときに焼かれてしまいました。

この山を少し先に進むときれいな竹林があります。

そこに神社が置かれていました。
水戸藩の郷校の中では最も遅くできたようです。
前にも潮来の延方郷校、潮来郷校、そして小川郷校などを紹介しました。

大山守をしていた「大塲家」屋敷の隣の裏山です。
屋敷の横の道を上るとすぐに右側に案内板があります。

少し奥に入るとすぐ「玉造郷校跡」の標識が置かれています。
少し空き地と隣には新しいお家もできています。

安政5年の開校というので、潮来郷校が前年(安政4年)1月の開校ですからそれよりも後です。
医学はなく教えるのは武術、砲術、講釈など。
多くが砲術の受講者だという。
ここに芹沢鴨や平間 重助もいたともいうが、潮来郷校でも名前が出てきたので良くわからない。

この場所が天狗党の玉造勢の終結場所になったようです。
そのために郷校は天狗党の乱のときに焼かれてしまいました。

この山を少し先に進むときれいな竹林があります。

そこに神社が置かれていました。
玉造郷校跡を取り上げて頂き有難うございます。
天狗党ができるのは、鴨が亡くなったあとですので、よく言われる「天狗党の生き残り」というのは間違いだと思います。あと平間重助は、玉造勢の名を記した史料に名前がないので、玉造勢としては、ここには来ていないと思います。平間重助が変名なら別ですが……。同じ水府派の芹沢鴨も新見錦も変名だと思いますので……。ご参考までに。
行方ではいろいろお教えいただき感謝申し上げます。
芹沢鴨が暗殺されたのは天狗党の乱の始まる前の年ですね。
情報ありがとうございました。