玉造郷校跡

 昨日紹介した戦国時代まで玉造城があった山の一角に「玉造郷校」があったそうです。

水戸藩の郷校の中では最も遅くできたようです。

前にも潮来の延方郷校、潮来郷校、そして小川郷校などを紹介しました。

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大山守をしていた「大塲家」屋敷の隣の裏山です。
屋敷の横の道を上るとすぐに右側に案内板があります。

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少し奥に入るとすぐ「玉造郷校跡」の標識が置かれています。
少し空き地と隣には新しいお家もできています。

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安政5年の開校というので、潮来郷校が前年(安政4年)1月の開校ですからそれよりも後です。
医学はなく教えるのは武術、砲術、講釈など。
多くが砲術の受講者だという。

ここに芹沢鴨や平間 重助もいたともいうが、潮来郷校でも名前が出てきたので良くわからない。

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この場所が天狗党の玉造勢の終結場所になったようです。
そのために郷校は天狗党の乱のときに焼かれてしまいました。

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この山を少し先に進むときれいな竹林があります。

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そこに神社が置かれていました。


玉造 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2016/11/09 21:37
コメント
No title
お邪魔します。
玉造郷校跡を取り上げて頂き有難うございます。
天狗党ができるのは、鴨が亡くなったあとですので、よく言われる「天狗党の生き残り」というのは間違いだと思います。あと平間重助は、玉造勢の名を記した史料に名前がないので、玉造勢としては、ここには来ていないと思います。平間重助が変名なら別ですが……。同じ水府派の芹沢鴨も新見錦も変名だと思いますので……。ご参考までに。
カブトガニⅡ 様
ご無沙汰しています。

行方ではいろいろお教えいただき感謝申し上げます。
芹沢鴨が暗殺されたのは天狗党の乱の始まる前の年ですね。
情報ありがとうございました。

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