鴨の宮
昨日の玉造郷校跡の見学の後に、道を間違えて北の方の細い道をくねくねと車で走っていました。
するとその通り沿いに「鴨の宮」と書かれた矢印看板を発見しました。

なにせこのあたり、ヤマトタケルの伝説も多い場所です。
近くに車を停めるスペースがないのですぐ先の広い通りに出て空いた場所に車を停めて歩いて戻ってきました。
この矢印看板から危なっかしいような階段を上って上に出ました。

上には畑とこんもりと茂った森があります。
この森の中に鴨の宮がありました。

ヤマトタケルが現原(あらはら)の丘で歩き回り、美しく連なる風景を眺めてまるで、この国を行細(なめくはし)と呼ぼうといったという行方の地名由来となった話の後に常陸国風土記では、
「この丘を下り、大益河(おほやがは)に出て、小舟に乗って川を上られたとき、棹梶が折れてしまった。よってその川を無梶河(かぢなしがは)といふ。茨城、行方二郡の境を流れる川である。無梶河をさらに上って郡境まで至ると、鴨が飛び渡らうとしてゐた。天皇が弓を射るや、鴨は地に堕ちた。その地を鴨野といふ。土は痩せ、生ふ草木もない。」(口訳・常陸国風土記)
とここに「梶無川」の由来と共に「鴨野」の地名由来が書かれている。
このヤマトタケルが弓で射った鴨が地に落ちたとされる場所にお宮を建てて「鴨の宮」として祀っているのだ。

しかし、説明を読んでみると、この場所に鴨の宮ができたのは昭和50年だそうだ。
その前にあった場所は昨日紹介した玉造郷校跡から200mほど離れた山の端の方で、昭和2年に近くを鹿島鉄道が通ることになり、この敷地の山の一部が掘削されてしまい、その場所に「鴨の宮再建」という碑が立てられていたという。
今もこの碑はあるようだが、このままでは保存状態が悪いとこちらに昭和50年に移したという。
前の場所からは北に2kmくらい離れているが、ここも鴨野という地名が残る場所のようだ。

ヤマトタケルが弓で鴨を射っている姿をモニュメントとしたもの。
行方市のこの種のモニュメントは皆このような姿だが、昔のイメージを抱かせようという者とは思うが芸術的にみるともっと違った力強さがある現代的なものでもよいのではないかと思うのだが・・・・。

これが鴨の宮
ところで芹沢鴨の本名は今では「下村嗣次」であるとのいうのが定説のようである。
芹沢外記貞幹の三男の幼名を玄太であるというのは間違いのようである。
行方市では今でもこの芹沢家の旧家に「芹沢鴨誕生の地」と看板を掲げている。
この鴨の名前はこの鴨の宮にあやかったものという見方があるようだ。
まあいずれにせよこのあたりに来ていたことは確かだ。
玉造郷校から最初にあった鴨の宮は歩いてすぐ行ける場所だった。

このあたりも谷津が入り組んでいて場所がわかりずらい。
旧玉造駅側から、県道116号線を北の方に進み、玉造第一保育園の少し先を右に入ってすぐこの標識が見える。
するとその通り沿いに「鴨の宮」と書かれた矢印看板を発見しました。

なにせこのあたり、ヤマトタケルの伝説も多い場所です。
近くに車を停めるスペースがないのですぐ先の広い通りに出て空いた場所に車を停めて歩いて戻ってきました。
この矢印看板から危なっかしいような階段を上って上に出ました。

上には畑とこんもりと茂った森があります。
この森の中に鴨の宮がありました。

ヤマトタケルが現原(あらはら)の丘で歩き回り、美しく連なる風景を眺めてまるで、この国を行細(なめくはし)と呼ぼうといったという行方の地名由来となった話の後に常陸国風土記では、
「この丘を下り、大益河(おほやがは)に出て、小舟に乗って川を上られたとき、棹梶が折れてしまった。よってその川を無梶河(かぢなしがは)といふ。茨城、行方二郡の境を流れる川である。無梶河をさらに上って郡境まで至ると、鴨が飛び渡らうとしてゐた。天皇が弓を射るや、鴨は地に堕ちた。その地を鴨野といふ。土は痩せ、生ふ草木もない。」(口訳・常陸国風土記)
とここに「梶無川」の由来と共に「鴨野」の地名由来が書かれている。
このヤマトタケルが弓で射った鴨が地に落ちたとされる場所にお宮を建てて「鴨の宮」として祀っているのだ。

しかし、説明を読んでみると、この場所に鴨の宮ができたのは昭和50年だそうだ。
その前にあった場所は昨日紹介した玉造郷校跡から200mほど離れた山の端の方で、昭和2年に近くを鹿島鉄道が通ることになり、この敷地の山の一部が掘削されてしまい、その場所に「鴨の宮再建」という碑が立てられていたという。
今もこの碑はあるようだが、このままでは保存状態が悪いとこちらに昭和50年に移したという。
前の場所からは北に2kmくらい離れているが、ここも鴨野という地名が残る場所のようだ。

ヤマトタケルが弓で鴨を射っている姿をモニュメントとしたもの。
行方市のこの種のモニュメントは皆このような姿だが、昔のイメージを抱かせようという者とは思うが芸術的にみるともっと違った力強さがある現代的なものでもよいのではないかと思うのだが・・・・。

これが鴨の宮
ところで芹沢鴨の本名は今では「下村嗣次」であるとのいうのが定説のようである。
芹沢外記貞幹の三男の幼名を玄太であるというのは間違いのようである。
行方市では今でもこの芹沢家の旧家に「芹沢鴨誕生の地」と看板を掲げている。
この鴨の名前はこの鴨の宮にあやかったものという見方があるようだ。
まあいずれにせよこのあたりに来ていたことは確かだ。
玉造郷校から最初にあった鴨の宮は歩いてすぐ行ける場所だった。

このあたりも谷津が入り組んでいて場所がわかりずらい。
旧玉造駅側から、県道116号線を北の方に進み、玉造第一保育園の少し先を右に入ってすぐこの標識が見える。
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