荒原神社(行方)
常陸風土記に記載されている行方の関連場所を何箇所か訪れましたが、前回の夜刀神や椎井の場所に行く前にもう一箇所立ち寄った場所があります。
場所は手賀です。

現地看板より
「手賀里:
荒原神社の鎮座するこの台地は、古くから人々が住み着き、縄文時代中期にはすでに核となる集落がつくられていました。現在もこの台地、特に傾斜地の縁には多くの貝殻が散らばっています。このような遺跡は「貝塚」とよばれ、八幡平貝塚・堀ノ内貝塚・西内貝塚があり、貝に混じって動物や魚類の骨も見つけることができます。
また、この台地から西方向霞ヶ浦へ伸びるこぼれ谷にはさまれた細長い台地には、多くの古墳がつくられました。そのひとつが手賀古墳群であり、箱式石棺とよばれる埋葬方法により、円形の塚を盛るなどいくつもの古墳が残されています。この他近くには大塚古墳があります。「常陸国風土記」には、永く当地方に住み着き大和朝廷に抵抗した「手賀」という名の人々のことが記録されています。「手賀里」はこの人々の名にちなんでおり、現在の手賀の地名の由来もここに求めることができます。
そして同じ風土記にある「里の北に位置する香嶋神子之社」が、荒原神社とする説もあります。現在の祭神は武甕槌命、祭礼は7月23日に行われます。
古墳時代から奈良時代にかけて手賀里の人々は、山海の豊かな幸と米づくりを中心にくらしていました。荒原神社馬場前遺跡はその代表的な古代集落跡で、土器や魚労具が発見されています。・・・・・・・
この地は、中世には手賀氏の館が構えられ荒幡神社もその一角に祭られてていた。別当の神宮寺、現在の持福院も薬師堂にあったと考えられます。・・・・・」
香島の神の子社はこの「荒原神社」と霞ヶ浦よりにある持福寺のすぐちかくにある「手賀八坂神社」の2社が指摘されている。
(持福寺と手賀八坂神社の記事 ⇒ こちら)
この荒原神社はこちらの手賀八坂神社に合祀されているのですが、こちらにもまだ残っているようです。

この荒原神社は355号線の手賀の信号を山の方に少し入った先にあります。
現在この神社の前には新しい特養老人ホーム玉寿荘という施設が作られていますのですぐにわかります。

場所は手賀です。

現地看板より
「手賀里:
荒原神社の鎮座するこの台地は、古くから人々が住み着き、縄文時代中期にはすでに核となる集落がつくられていました。現在もこの台地、特に傾斜地の縁には多くの貝殻が散らばっています。このような遺跡は「貝塚」とよばれ、八幡平貝塚・堀ノ内貝塚・西内貝塚があり、貝に混じって動物や魚類の骨も見つけることができます。
また、この台地から西方向霞ヶ浦へ伸びるこぼれ谷にはさまれた細長い台地には、多くの古墳がつくられました。そのひとつが手賀古墳群であり、箱式石棺とよばれる埋葬方法により、円形の塚を盛るなどいくつもの古墳が残されています。この他近くには大塚古墳があります。「常陸国風土記」には、永く当地方に住み着き大和朝廷に抵抗した「手賀」という名の人々のことが記録されています。「手賀里」はこの人々の名にちなんでおり、現在の手賀の地名の由来もここに求めることができます。
そして同じ風土記にある「里の北に位置する香嶋神子之社」が、荒原神社とする説もあります。現在の祭神は武甕槌命、祭礼は7月23日に行われます。
古墳時代から奈良時代にかけて手賀里の人々は、山海の豊かな幸と米づくりを中心にくらしていました。荒原神社馬場前遺跡はその代表的な古代集落跡で、土器や魚労具が発見されています。・・・・・・・
この地は、中世には手賀氏の館が構えられ荒幡神社もその一角に祭られてていた。別当の神宮寺、現在の持福院も薬師堂にあったと考えられます。・・・・・」
香島の神の子社はこの「荒原神社」と霞ヶ浦よりにある持福寺のすぐちかくにある「手賀八坂神社」の2社が指摘されている。
(持福寺と手賀八坂神社の記事 ⇒ こちら)
この荒原神社はこちらの手賀八坂神社に合祀されているのですが、こちらにもまだ残っているようです。

この荒原神社は355号線の手賀の信号を山の方に少し入った先にあります。
現在この神社の前には新しい特養老人ホーム玉寿荘という施設が作られていますのですぐにわかります。

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