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島崎城址と御札神社(潮来)

 中世に行方地方を支配していた大掾氏(だいじょうし)系の行方四頭の二男島崎氏は潮来市(牛堀)の山間に居を構えていた。
通りから少し入った狭苦しい場所だということでなかなか足が向かなかった。

昨日銚子に出かけた時に途中で立ち寄ることにした。

ナビに近くの住所を登録して出かけた。
前に来たときに道がわからずに途中で引き返したためだ。

今度は無事に到着したが、ナビがなければたどり着けたかどうか?
見学時間も朝方の1時間程度で数カ所立ち寄るというのだから道を間違えると途中でタイムアップになってしまう。

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 関東平家の直系である「常陸大掾(だいじょう)氏」の多気大掾氏四代目の平致幹(むねもと)の弟である平清幹は水戸に進出していたが、清幹には三子がおり、長男盛幹は吉田太郎、次男忠幹は行方次郎、三男成幹は鹿島三郎となり吉田氏・行方氏・鹿島氏となった。
この吉田氏は水戸を本拠地にして多気大掾が滅びた時に大掾を受け継ぎ常陸大掾氏を継承した。そして国府のあった石岡(府中)にも城を築いて二つの城を行き来していたが、水戸を奪われると佐竹氏に敗れるまで石岡(府中)がその根拠地となった。
一方、この次男忠幹(行方氏始祖)の子景幹が地頭職に任じられ、行方地方で勢力を拡大し開拓していった。
しかし、このあちこちには鹿島の神宮の領地もあり、争いも頻繁に起こっていた。この景幹には4人の息子がおり、小高氏(行方氏)・島崎氏・麻生氏・玉造氏になっていった。

この二男が島崎氏となったのだが、場所は一番鹿島寄りの牛堀である。
いまは牛堀も潮来市となっている。

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行方四頭が支配を始めたのは鎌倉時代の始まるころである。
この島崎城は鎌倉時代始め頃(13世紀?)と考えられている。

戦国時代には行方四頭の間でも争いは起こっており、島崎氏は大永5年(1525)に鹿島氏を攻め、鹿島郡をほぼ領有し、天文5年(1536)には玉造宗幹を攻め、行方郡を一時ほぼ制圧した。
天正12年(1584)に麻生城を攻略し、里見義弘の弟義政を井関氏と改めて城主とした。
同十七年には小高城を攻めて坂氏兄弟を戦死させた。

こうしてこのあたりを制圧した島崎氏ではあったが、佐竹氏が秀吉から常陸国の統一を任され、この南方33館の城主が一斉に常陸太田に呼びつけられてすべて誅殺されて一族皆滅んでしまった。

助かったのは呼び出しに応じなかった芹沢氏くらいだ。

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この島崎城もこの佐竹氏の呼び出しで殺されて、城も滅んでしまったが、残された人々はどうしたのであろうか?

今この城跡の一角(本丸跡)に「御札(みふだ)神社」が建っている。

水戸藩の開基帳には島崎城構築の際、本丸に取構え城の鎮守として崇拝したと記され、祭神は武甕槌命である。
当社所蔵のものとして、大べし・抜頭・貴徳・翁・醜男の五つの古面があり県指定の文化財(工芸品)になっている。
(潮来市HP)

この古面は結構面白い。かなり古い面だ。

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4-81-5.jpg 茨城県教育委員会HPより





潮来 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2016/11/22 18:33
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