相鹿の里(1)
常陸国風土記ではヤマトタケルが常陸の国にやってきて死んだはずの弟橘姫に再開するという記述が2か所出てくる。
その一つが行方郡の所で、相鹿の里という名の由来説明である。もう1カ所は日立の助川である。
この行方の相鹿という場所を探してみた。
「田の里より南に相鹿(あふか)、大生(おほふ)の里がある。昔、倭武の天皇が、相鹿の丘前(をかざき)の宮に留まられたときに、膳炊屋舎(おほひ ど)のを浦辺に建てて、小舟を繋いで橋として御在所に通はれた。大炊(おほひ)から大生(おほふ)と名付けた。また、倭武の天皇の后の大橘比売(おほたちばなひめ)の命が、大和から降り来て、この地で天皇にお逢ひになったことから、安布賀(あ ふ か)の邑といふ。」(口訳・常陸国風土記より)
と相鹿の里で后の大橘比売命(弟橘姫命)に再会したと記載されている。
ヤマトタケル尊が相鹿の丘前の宮に滞在したとあるこの相鹿の丘前の宮と考えられている場所が今日紹介する場所だ。

「相賀山 寿福寺」と門柱があるこのあたりに丘前の宮があったと思われている。
通りの入り口に「相賀の丘前の宮跡」という看板が立っているそうだが上からやってきたので見落とした。
この寺は現在この場所にはない。
ここを入っていくと「雷神社」という神社が建っている。

場所は北浦大橋近くの旧麻生町岡。茨城県道185号線(繁昌-潮来線)沿いの「岡農村集落センター」の南隣りである。

この門柱はいつごろのものだろうか。
二十三夜塔などがそばに置かれている。

上に登っていくと正面に新しい神社の建物が建てられており、左側に古いお宮が3つある。

一番左側に鳥居があって「雷神社(らいじんじゃ)」と書かれている。

真ん中にあるのは「丘前宮道鏡大明神」と書かれている。
丘前宮(おかざきのみや)と呼ばれていたが途中から道鏡様(弓削道鏡)=男根 信仰が合わさって、この祠の中には何かそのようなものが置かれている。

説明は下記を読んでいただければある程度分かるが・・・・。
何ともやはりよくわからない。

さて、弟橘姫との再会のもう一つの記述は久慈郡の助川駅家の説明に出てくる。
「ここから東北へ三十里のところに助川の駅がある。以前は遇鹿(あひか)といったのは、むかし倭建の天皇が、ここに出かけられたとき、皇后様と行き逢ふことができたので、その名がついた。国宰(くにのみこともち)久米大夫のころに、鮭を採ったので、助川といふやうになった。(俗に鮭の祖を「すけ」といふ)」(口訳・常陸国風土記)
今でも名前のある日立市の助川に駅家(うまや)があった。
この助川という名前は前は「遇鹿(あひか)」と言っていたが、鮭が採れるので助川といわれるようになったと言う。
相鹿も遇鹿も読みは「あふか」である。
明日はもう少しこのあたりを散策した記事を書く予定だ。
このブログも毎日というのはやめにしたが、更新も自然体で続けていくつもりだ。
その一つが行方郡の所で、相鹿の里という名の由来説明である。もう1カ所は日立の助川である。
この行方の相鹿という場所を探してみた。
「田の里より南に相鹿(あふか)、大生(おほふ)の里がある。昔、倭武の天皇が、相鹿の丘前(をかざき)の宮に留まられたときに、膳炊屋舎(おほひ ど)のを浦辺に建てて、小舟を繋いで橋として御在所に通はれた。大炊(おほひ)から大生(おほふ)と名付けた。また、倭武の天皇の后の大橘比売(おほたちばなひめ)の命が、大和から降り来て、この地で天皇にお逢ひになったことから、安布賀(あ ふ か)の邑といふ。」(口訳・常陸国風土記より)
と相鹿の里で后の大橘比売命(弟橘姫命)に再会したと記載されている。
ヤマトタケル尊が相鹿の丘前の宮に滞在したとあるこの相鹿の丘前の宮と考えられている場所が今日紹介する場所だ。

「相賀山 寿福寺」と門柱があるこのあたりに丘前の宮があったと思われている。
通りの入り口に「相賀の丘前の宮跡」という看板が立っているそうだが上からやってきたので見落とした。
この寺は現在この場所にはない。
ここを入っていくと「雷神社」という神社が建っている。

場所は北浦大橋近くの旧麻生町岡。茨城県道185号線(繁昌-潮来線)沿いの「岡農村集落センター」の南隣りである。

この門柱はいつごろのものだろうか。
二十三夜塔などがそばに置かれている。

上に登っていくと正面に新しい神社の建物が建てられており、左側に古いお宮が3つある。

一番左側に鳥居があって「雷神社(らいじんじゃ)」と書かれている。

真ん中にあるのは「丘前宮道鏡大明神」と書かれている。
丘前宮(おかざきのみや)と呼ばれていたが途中から道鏡様(弓削道鏡)=男根 信仰が合わさって、この祠の中には何かそのようなものが置かれている。

説明は下記を読んでいただければある程度分かるが・・・・。
何ともやはりよくわからない。

さて、弟橘姫との再会のもう一つの記述は久慈郡の助川駅家の説明に出てくる。
「ここから東北へ三十里のところに助川の駅がある。以前は遇鹿(あひか)といったのは、むかし倭建の天皇が、ここに出かけられたとき、皇后様と行き逢ふことができたので、その名がついた。国宰(くにのみこともち)久米大夫のころに、鮭を採ったので、助川といふやうになった。(俗に鮭の祖を「すけ」といふ)」(口訳・常陸国風土記)
今でも名前のある日立市の助川に駅家(うまや)があった。
この助川という名前は前は「遇鹿(あひか)」と言っていたが、鮭が採れるので助川といわれるようになったと言う。
相鹿も遇鹿も読みは「あふか」である。
明日はもう少しこのあたりを散策した記事を書く予定だ。
このブログも毎日というのはやめにしたが、更新も自然体で続けていくつもりだ。
いろんなとこの歴史的なものを探っていらっしゃるので探偵団という感じもします。
こういう知的好奇心はすばらしい。でも疲れたりしたら休んだりして、続けることも大切です。
おもしろい発見、展開を期待しています。
いままでの記事を整理していたら足りない場所があり探してみました。
行方を風土記に記載されているところもまだまだ訪ねていないところがあるのです。
でもあまり紹介されていないので苦労します。
> いろんなとこの歴史的なものを探っていらっしゃるので探偵団という感じもします。
探偵団ですか? そんなところもありますね。
一人ではただののろま?探偵というところです。
> こういう知的好奇心はすばらしい。でも疲れたりしたら休んだりして、続けることも大切です。
ありがとうございます。時間もないのによく行くよと自分でも思っています。
やはり何歳になっても好奇心なのでしょうね。