相鹿の里(2)-相賀城跡
昨日書いた相鹿の里に立つ「雷神社」には反対側(西側)に隣接する「相賀城」跡に南側の「根小屋」から登って行った。
根小屋という地名は中世の城の近くにたくさん存在しているが、どこも城の配下の家来たちが住んでいた集落を呼んでいたようだ。

道の途中に「ナウマンゾウの化石」の発掘場所というのがあった。

こんな場所に1万5千年以上前にナウマンゾウがいたという。

そこから車を置いて山道を登る。
車も入れそうだがこの先がどうなっているかわからないのだから、このような道はやはり車では登れない。

上には開けた畑が広がり、一つの立て看板があった。

「相賀城跡(あいがじょうあと)」と書かれていた。
「相賀城(あいがじょう)は平安時代の末、逢賀太郎親幹(おうがたろうちかもと)が築いた逢賀城(おうがじょう)で、これを室町時代の末期に手賀左近尉義元(相賀入道)が再建し、相賀城と呼ぶようになった。」
と書かれています。
逢賀太郎親幹はこの名前(幹)からしても大掾氏の系統であることは確かで、行方四頭の系列であろう。
手賀氏は行方四頭の玉造氏の系列だから、同じような系列かもしれない。
やはり最後は佐竹によって滅ぼされた(南方三十三館)ようだ。

このまわりに土塁とか城の名残が残されていたようだが、今はあまり畑が広がるだけ。

その先を少し行くと昨日紹介した「雷神社」のところに出る。
根小屋という地名は中世の城の近くにたくさん存在しているが、どこも城の配下の家来たちが住んでいた集落を呼んでいたようだ。

道の途中に「ナウマンゾウの化石」の発掘場所というのがあった。

こんな場所に1万5千年以上前にナウマンゾウがいたという。

そこから車を置いて山道を登る。
車も入れそうだがこの先がどうなっているかわからないのだから、このような道はやはり車では登れない。

上には開けた畑が広がり、一つの立て看板があった。

「相賀城跡(あいがじょうあと)」と書かれていた。
「相賀城(あいがじょう)は平安時代の末、逢賀太郎親幹(おうがたろうちかもと)が築いた逢賀城(おうがじょう)で、これを室町時代の末期に手賀左近尉義元(相賀入道)が再建し、相賀城と呼ぶようになった。」
と書かれています。
逢賀太郎親幹はこの名前(幹)からしても大掾氏の系統であることは確かで、行方四頭の系列であろう。
手賀氏は行方四頭の玉造氏の系列だから、同じような系列かもしれない。
やはり最後は佐竹によって滅ぼされた(南方三十三館)ようだ。

このまわりに土塁とか城の名残が残されていたようだが、今はあまり畑が広がるだけ。

その先を少し行くと昨日紹介した「雷神社」のところに出る。
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