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日の丸と源平合戦(4)

その4-甲斐武田家伝来の家宝は日の丸?

■御旗・楯無も御照覧あれ
 
 戦国大名として有名な武田信玄。
この武田家では、当主が「御旗・楯無も御照覧あれ」と言うと、それまで反対意見などがあっても、この家宝の前で誓ったことは、全員が死を持っても守らなければならず、それ以上の議論は止めなければならなかったといわれています。

「御旗(みはた)・楯無(たてなし)」は共に武田家の家宝であり、絶対に従わなくてはならない最も神聖なものでありました。
御旗(みはた)というのは新羅三郎義光の父頼義が後冷泉天皇(1045-1068年、第70代)から下賜された「日の丸御旗」であり、源氏の直系を示す旗です。
「楯無(たてなし)」というのは義光が使っていた鎧(楯が無くても槍や刀を通さない丈夫な鎧)」のことであり、「この鎧に勝る楯無し」がその語源です。

御旗  楯無

左:御旗(みはた):山梨県塩山市 雲峰寺所蔵   右:楯無(たてなし):山梨県塩山市 菅田天神社蔵
 
武田信玄の子(四男)武田勝頼と織田信長が戦った「長篠の戦」では、信長が3,000丁の鉄砲で、当時無敵と言われた武田の騎馬隊を破りましたが、実は、この戦いの前夜、武田軍側は「引くべきか、攻めるべきか」で議論が紛糾したといわれています。

長老達は「引くべき」と主張し、若手は「攻めるべき」と主張し意見が分かれまとまらなかったのです。

このため、勝頼が「御旗・楯無も御照覧あれ、明日は戦いで勝負をつけよう!」というと、その瞬間、その場にいたすべての人は議論を止め、戦が始まったと伝えらています。

その結果は、皆さんがよくご存知のように、武田軍は信長の三段構え?の鉄砲隊の繰り出す砲弾の前に無謀な突撃を繰り返したのです。
途中から体制を立て直し、作戦を変えることも出来たでしょうに、勝てぬ戦と知りながらも引くことは許されなかったのでしょう。
この結果天下無敵と言われた武田の騎馬隊もほぼ全滅してしまいました。
この時武田軍が勝っていればそれから先の歴史は大きく変わっていたのは確かだと思います。

まあこの話もどこまでが本当かということは推論もあるようですので確実ではありませんが、エピソードとともにこの日の丸御旗を考えてみるのも今となっては楽しいことだと思います。

 さて、この「御旗・楯無も御照覧あれ」の言葉は現代でも、会議が長くなり、たくさんの意見が出すぎてしまって、結論が出なくなった時などに、誰かが決断する必要がある時などに、時々例として取り上げられておりますが、決断を下した結果がみじめな結果に終わることもあるので、間違ったと分かった時には軌道修正することも必要ですね。

■甲斐武田家は源氏の直系
 
武田家は清和天皇(850-880年)に始まる清和源氏の血を引く、名門の家です。

武田家は清和天皇から数えて4代目満仲(摂津源氏)の三男頼信を祖とする河内源氏の流れです。
頼信の子頼義には三人の子があり、長男は八幡太郎義家であり、この子孫が鎌倉幕府を開いた源頼朝です。

武田家の祖は新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)といわれており、寛徳二年(1045)源頼義を父に、上野介平直方の女を母として生まれ、近江国(滋賀県)円城寺(三井寺)の新羅明神で元服し、新羅三郎を名乗っています。

知謀に富み、弓術をよくし、笙(しょう)の名手だったと伝えられ、歴史上重要な人物です。
三郎の名の通り三男で、長男八幡太郎義家に比べ50歳を過ぎてから頭角を現します。
また次兄義綱は「賀茂次郎」と呼ばれています。

前九年・後三年の奥州合戦によって東国源氏を武門の家として確立した新羅三郎義光は上の兄二人に隠れてか、官途につくのが遅く、左兵衛尉になった時すでに四十代に手のとどく歳になっていました。
そして常陸介(ひたちのすけ)の受領職についたのは五十代の後半であり、義光の本領が発揮されたのは、それ以後のことです。

■日の丸の御旗の由来

新羅三郎義光は、父頼義が後冷泉天皇(1025-1068年)から下賜された「日の丸御旗」と「楯無鎧」を嫡男義業ではなく、三男の義清に譲りました。

これが、義清・清光父子とともに常陸國から甲斐國に伝えられ、甲斐武田家の家宝となったのです。

以来、御旗・楯無鎧は、武田家の惣領のしるしとして、信玄・勝頼に至るまで代々引き継がれていきました。

この御旗はまさに日の丸です。少し朱色の丸の部分が大きく、地も白色ではありません。
しかし当時日の丸が天皇家、源氏直系の印と考えられていたことがわかります。

 さて、この日の丸の御旗は何故長男「義業」ではなく「義清」に渡ったのでしょうか。

詳しく書かれている文献が見当たりません。もし、「義業」に渡っていればこの家系は常陸国を統一し、秋田藩を400年栄えさせた佐竹家ですので、武田家の家宝についても、何かいわくがありそうです。

これについてはいくつかの説があるようですが、その一端を紹介しましょう。

説によると新羅三郎義光の長男の義業は,義光の兄,加茂二郎義綱に後継ぎがいないため義綱を継ぎ,そのために義清が義光を継いだ というようにも言われています。

しかし、加茂二郎義綱に子供がいなかったのではなく、複雑な事情がありそうです。
京都の賀茂神社で元服したことから賀茂次郎と呼ばれました。
父や兄と共に前九年の役で戦い、その勲功を賞され右衛門尉へと任ぜらましたが、後三年の役には参戦していません。
新羅三郎義光は後から応援に駆け付けます。

嫡男である義業が家督をついでいたらこの「日の丸の御旗」は佐竹家に伝わっていたことになります。

しかし、加茂二郎義綱のことを調べていくとなんだかドロドロとしたお家事情が見えてきます。

八幡太郎義家が死亡した後、河内源氏の棟梁は義家の三男の義忠が継いだ。
しかし、その3年後に義忠が何者かに斬られて殺された。その嫌疑が加茂二郎義綱とその三男の義明にかけられた。
疑いをかけられたjことに抗議して山に立て籠もったりし、義忠自害、義綱は佐渡に流され、20年後に自害したという。

今ではこの事件は冤罪で、新羅三郎義光のはかりごとだったと言われているそうだ。(Wikipediaより)


日の丸と源平合戦 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2016/12/23 22:06
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