日の丸と源平合戦(5)

(今までの1~ 読むには こちらをクリックしてください ⇒ 日の丸の(1)から読む

その5 新羅(しんら)三郎義光はどんな人物? 

■新羅三郎義光に係わる昔話

 武勇の達人である新羅三郎義光は笙(しょう)の名手でもあり、いろいろなエピソードが残っています。
そのいくつかを紹介しましょう。

【源氏の白旗】【流鏑馬】

 新羅三郎義光は、(後三年の役で)兄の八幡太郎義家が奥州地方の反乱をしずめるために戦っているのを助けようと朝廷の許しが無いにも係わらず、京を出奥州へ向かいます。

途中、甲斐の国にさしかかった時です。山深い甲斐で道に迷い、一歩も前へ進めなくなってしまいました。
その時、黒い立派な馬をひいた不思議な木こリが現われ、義光に道案内を申し出ました。

 奇妙なことに、木こりが歩いていくと、それまでは草木が生い茂って道などまったくなかったところに、自然と道がひらけていきます。
義光が驚いてあたりをよく眺めてみると、草木のなかに隠れて、真っ白い旗がところどころに立ててあります。
「この白旗が、道の目印になっているのだ。それにしても、誰が立てた道しるべなのか」
 義光はますます不思議に思いました。
木こリはなにも言わず、もくもくと進んでいきます。
やがて、目の前が広々とひらけました。
「さあ、ここが頂上です。あとは、この道をまっすぐ行けぱ、奥州へ抜けられます」
そういうと、黒駒と木こリの姿はまたたく間に消えてしまいました。

 義光がいまきた道を振り返ってみると、八本の白旗が見えました。
「そうか、八本の白旗は、源氏の守リ神の八幡大菩薩をしめすものに違いない。あの木こリこそ、八幡大菩薩の化身だったのだ」

 義光は山をおリると兵と馬を集め、冨士御室浅間神社に祈願し、奥州へと出陣していきました。
戦はみごとに勝ち、義光は帰リにも御室浅間神社にもうて、盛大な感謝のお礼祭をしました。

 冨士御室浅間神社の流鏑馬はこの時からはじまったと言われています。

【新羅三郎義光吹笙の石】

 群雄割拠の時代にあって新羅三郎義光は風流な笙(しょう)の名人といわれ、笙は豊原時元に学びました。
時元は並び無き笙の名人でありましたが、一子時秋がまだ幼少のため、家伝の秘曲を新羅三郎義光に授けました。

 その後、三郎義光は奥州で苦戦していた兄八幡太郎義家を助けるために京を立って奥州へ向かいます。
まだ若き時元の子時秋は、義光の戦死による秘伝の秘曲が永遠に伝わらなくなることを恐れ、義光の後を追いかけ、足柄山でついに追いつきます。

この時義光はその志を察して、時元より伝えられた秘曲・大食調とハ長曲の二曲を中秋朧月夜の元で時秋に授けるのです。
この時の笙の音色を、無念無想ただ嫋嫋(じょうじょう)と表現されています。

新羅三郎義光はこの時、時秋に「我は武のため、貴殿はこの道のため」と諭し、笛の秘曲の奥義を伝えたとされています。この故事にちなみ毎年9月の第2日曜日に足柄峠笛まつりが開かれています。

Ashigara.jpg
笙を吹く源義光を描いた『足柄山月』 月岡芳年「月百姿」(Wikipediaより)


この時代は東海道は足柄峠を通っていたのです。
足柄峠を通る東海道については前に書いた記事を参照ください ⇒ こちら


【新羅三郎義光伝来薄墨笛】

 源義経が牛若丸時代から愛用したといわれる横笛。
七百年の風雪に耐えて奏者を得ればいまにさえた音色を惜しむところがないといわれ、駿河国新風土記の久能寺の条に「源義経所持薄墨の笛、此笛蝉(笛につく装飾金具)なし中村式部少輔再興、笛の頭に金にて村の字を置り」とあります。

また駿国雑誌巻二十九上有度郡の条に「義朝朝臣の常に手馴持玉ひし漢竹の蓬調の薄墨と名付けたるを常磐の方より御曹司に伝え置れしを身を放たず携玉ひ」また「浄瑠璃姫別れの悲しみにたえず終にむなしくなれり。
母は姫の年ごろ携る所の器物を蓬莱寺に納め薄墨といえる笛は駿河国有度山久能山に納玉云々」と記されてあります。

 さらに笛の添え状には、薄墨の笛がそこなわれていたので文禄四年(1995)に駿河国城主中村一氏式部小輔が補修したという記録があることから、この笛は新羅三郎義光伝来のものが源義朝~常磐御前~義経~浄瑠璃姫~久能寺と伝わったといわれています。

 牛若丸が五条大橋で弁慶を家来にした際持っていたのは、日の丸の扇とこの横笛です。
牛若丸こと源義経が壇ノ浦で大活躍し、平家の滅亡につながったのですから、非常に興味深い話ですね。
(この話がどこまで真実かはよくわかりませんが・・・・)

久能寺は石岡も関係のある(高浜神社に扁額がある)山岡鉄舟が復興し、寺号も鉄舟寺と改まっています。

■武田家に関する逸話 

 長篠の戦で敗れた後、天目山の戦で武田家はついに滅びてしまうのです。
もっとも信玄により自害されられた長男にかわり、相続すべき次男は盲目であったために家督相続できなかったそうで、その子孫は現在も健在とのことです。
一方武田家は勝頼の死後、信玄の孫(信玄の養女が母との説)が、真田幸村となって大阪夏の陣で家康を追い詰めますが、討ち死にして武田家が途絶えたとの見方が一部でありますが、真田幸村は武田の武将真田昌幸の次男であり、信玄の弟「武田信繁」より名前をつけて源次郎信繁が本名です。
この武田信繁は信玄の影武者となり、川中島の戦で戦死しています。
幸村についてはまだまだなぞの部分が残されていますね。

 真田幸村は魅力的な武将です。中国三国志の諸葛孔明を思わせる魅力があります。
真田十勇士など数々のロマンの物語が生まれています。
ここは日の丸のお話ですから、真田幸村の話は他に譲って、当時の家紋が戦時中にどのように使われたのかについて、興味深いお話をします。

■真田幸村の旗印 

 1567年(永禄十年)、武田氏に仕える信濃国上田城主真田昌幸に、二人目の男の子が誕生しました。
これが後の真田幸村です。 
1582年(天正十年)、武田勢は、天目山の戦に破れ、昌幸の軍も上田城に引き返すことになりました。
ところがその途中、四万余の北条軍に遭遇してしまったのです。

「わが軍は、わずか三百。これでは到底勝ち目がない。さて、どうしたものか。」
思案に暮れる昌幸の前に、当時15才の幸村が進み出ました。
「父上、私によい考えがあります」「おお、幸村か。よい考えとは何じゃ」「私に紋のない旗をお与え下さい」

 幸村はその旗に北条方の武将松田氏の旗印永楽通宝を描いて兵に持たせ、軍を六隊に分けて闇討ちをかけました。
北条方は松田が謀反を起こしたと勘違いして大混乱。
それに紛れて真田勢は無事上田城に帰り着いたのです。

「でかしたぞ。幸村。
これにちなんでそなたの旗印には六つの銭を描くがよい」こうして、幸村は六文銭の旗印を持つことになったのです

■武田の旗印-風林火山

 一般的に風林火山として知られている武田軍の旗印。もともと「風林火山」という言葉は、中国の孫子によるものだそうです。そして、この風林火山には続きがあります。 

其疾如風:その疾き(はやき)こと風の如く
其徐如林:その徐か(しずか)なること林の如く.
侵掠如火:侵掠(しんりゃく)すること火の如く
不動如山: 動かざること山の如く
難知如陰:知り難きこと陰(やみ)の如く
動如雷震:動くこと雷の震う(ふるう)が如し

すべてを用いれば、『風林火山陰雷』となりますが、語呂が悪いですね。最初の4つを採用したところは武田信玄のセンスの良いところでしょう。知り難きこと陰の如くを採用せずに「御旗・楯無も御照覧あれ」と盲目的に突撃した武田軍と太平洋戦争中の日本の特攻隊にも何か共通するものが感じられます。
分からないことをどうやって知ろうか? 情報をいかに正確に伝えようか? 世界は益々難しい局面に入ります。
歴史に学ぶことも多いように思います。

日の丸と源平合戦 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2016/12/24 20:41
コメント

管理者のみに表示