日の丸と源平合戦(6)

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その6-日の丸の扇(平家の赤旗、源氏の白旗)

■平家の赤旗、源氏の白旗 

 鎌倉の鶴岡八幡では、橋をはさんで片方が源氏池、もう一方が平家池と呼ばれていますが、その源平にちなんで白の蓮と紅の蓮が植えられています。
でも現在では白と紅がまじってしまっており、遠い昔が偲ばれます。

遠いといってもまだ800年と少し前のことですが、この頃の時代はずいぶん昔に感じるのは今の歴史の教育は面白くないのですかね。
先般より中学校での歴史の時間は大幅に減っているようです。
でもこの私の時代でも古代史から始めると近代史はほとんど駆け足でしたし、大学受験では世界史専攻で日本史はさっぱりわからずに来てしまいました。
今になって少し興味が湧いてきたというところです。教育では何か身近なものとして捉えるための工夫をして欲しいと思います。

 源・平の旗について『平治物語』待賢門戦の条に「平家は赤た赤しりし、日にえいじてかがやけり、源氏の大はたをしなべて白かりけるが、風に吹きみだされ、いさみすすめる有さまは、誠にすざまじくこそ覚えけれ」とあります。

 このように、源・平両氏は、当時、白・赤の旗で、自分たちの目印としたことがわかります。
この当時は争うのは2つですから、いずれも無地の源氏の白旗、平家の赤旗の二色ですんだのです。
上古以来の朝廷の軍の旗が赤色であったことから、平氏がその伝統を先取りして赤旗を用いたものであり、源氏はその対抗上、白旗を用いたものと考えられていますが、源氏はこの白を純粋無垢、清浄神明の色で、神の宿る色、神の加護(八幡大菩薩)を期待し得る色として掲げていました。

 文治元年(1185)、平家一門が滅んだとき、源頼朝は、白旗を源氏嫡流の旗として、余人の使用を許さなくなりました。
群雄割拠の戦国時代には、陣幕・旗指物・幟・馬印などに家紋がつけられ、遠距離からも彼我の区別ができるようになります。
この家紋は公家にはじまったものですが、急速に武士の間に普及していったのです。

■秋田藩佐竹家の家紋 

 平家滅亡後五年目の文治五年(1189年)八月、源頼朝が藤原泰衝征伐のため奥州に軍を進めた時のことです。
下野国宇都宮を通過の際、常陸国から馳せ参じた源氏の一族佐竹隆義が、無文の白旗を掲げているのを見とがめ白旗の使用を禁じました。
このとき、頼朝は隆義に、月を描いた扇を与えて、この文様を旗につけるよう命じたと『吾妻鏡』は伝えています。

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佐竹家の家紋:月印五本骨軍扇

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花菱月丸扇紋蒔絵鏡台
(宇和島伊達文化保存会蔵 )

 
 佐竹氏はその後、豊臣秀吉の小田原北条氏攻略に参陣し、その時の功績から、秀吉より常州の旗頭になるよう命ぜられ、水戸城を攻略し太田城(日立太田市)より水戸城へ移り、1591年に常陸国(茨城県)を統一した豪族です。

ところが、関が原の戦いでは石田三成に加勢し、家康より54万5千石から20万5千石に減封となり、秋田へ国替えを命じられてしまいます。
1602年のことですから今から約400年以上前のことでした。
しかし、この佐竹家は秋田で久保田城を完成させ、それから明治維新まで秋田を治めることとなります。
茨城県にすんでいる私にとっては非常に興味深い歴史を感じます。

 この家紋を「日の丸扇」と称するする人が大勢おります。
しかし、各種の文献を見てみると、月の丸と解釈するのが正しいと思われます。
その代表的なものとしては、花菱月丸扇紋蒔絵鏡台があります。
これは安政3(1856)年に秋田藩佐竹家より宇和島藩伊達家に嫁いだ佳姫の婚礼調度一つであり、黒漆地に花菱文・幸菱紋で全体を埋め尽くし、要所に佐竹家の家紋(月丸扇)を入れた優美なデザインになっています。

ただし、佐竹家も源氏の流れを汲む家柄で、常陸源氏を称しており、いつのまにか月が日の丸と多くの人々に思われるようになっていったのではないでしょうか。

例えば、江戸時代に秋田藩の上屋敷があった東京神田には「佐竹稲荷神社」が残っていて、この社紋は「扇に日の丸」と解釈されており、明治初めに付けられた新町名の(神田)旭町の由来はこの日の丸扇と言われています。

また秋田県にはある日の丸醸造株式会社の清酒「日の丸」があり、この名前の由来も佐竹藩の家紋「五本骨の扇に日の丸」と解説されています。
この酒造所の創業は元禄二年(1689年)と書かれておりますので、かなり古くから「日の丸扇」との一般的な解釈がなされていたものと思われます。

日の丸と源平合戦 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2016/12/25 19:27
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