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日の丸と源平合戦(7)

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さて、源平と言っても何故「平氏と源氏」と言わないで「平家」というのでしょうか。
平氏について少し掘り下げてみましょう。

その7 - 関東における平氏と源氏について

■ 平氏の祖は平高望、平国香である?

 この平家というのは一般には室町時代の後期に京の都で一大勢力を築いた平清盛を代表する「伊勢平氏」のことをさしています。
このため、西の平家に対し東の源氏との一部でいわれている様に、平氏も西(関西)が中心と考えられがちですが、この平氏(桓武平氏)の起こりは室町幕府(平安遷都)をおこした桓武天皇の曾孫「高望王(たかもちおう)」が889年に宇多天皇より平(たいら)姓を受けて皇族(貴族)より下って(臣籍降下)、上総介に任じられ、上総の国(今の千葉県東部)にやってきたことが始まりだといわれています。

平高望はこの元皇族である地位と人脈を使い地方の豪族と仲良くなっていきます。
そして勢力を関東一体に拡げていったのです。未開拓の土地などの開墾なども積極的に行っており、関東の発展に寄与したといっても過言ではないでしょう。

この桓武天皇の系列は桓武平氏とよばれ、関東に根を張っていった高望王の系列と京の都に公家として残った高棟王の2つの系列があり、高望王の系列から清盛が、高棟王系列より清盛の妻「時子」が出ています。

少し時系列的に流れを見ていきましょう。

■ 関東平氏(坂東平氏)の起こり

1)平安時代に桓武天皇の孫である高望王が平(たいら)の姓をもらい(889年)民間に下って、上総介(かずさのすけ)として上総(千葉)やってきます(898年)

2)その時、国香・良兼・良将という3人の子供を連れてきます。そして高望王は任期が終了し、902年に大宰府に西海道の国司として転任となりました。
しかし、3人の子供達はこの常陸・上総・下総の地に残り、土地の豪族と手を結んでこの地に土着します。

3)長男国香は筑波の豪族であり、前常陸大掾の源護(みなもとのまもる)の娘を妻にむかえ常陸国にその基盤を築いていきます。
この国香の子孫が代々常陸国の大掾職を継いで大掾氏を名乗るようになります。

平清盛を代表とする平家と言われるのはこの国香の子孫で伊勢平氏といいます。

さて、この大掾(だいじょう)という職位はあまり聞きなれない言葉ですが、その当時の国司の職位は守(かみ)、介(すけ)、ときてその下が掾(じょう)といいました。大国(延喜式の記載では13ヶ国)と言われた国にのみ大掾と少掾が置かれていました。掾の下に目(もく)が置かれていましたが、これも大国は大目、少目が置かれました。

また、常陸国は、都の大和朝廷(皇族)の収入が困窮し始めたため、上総国・上野国とともに、天長3年(826年)以降、皇族が直接統治して税を徴収する親王任国に指定され、親王が国守となり現地には来なくなりました。
「介」も次第に名誉職となり現地は大掾(だいじょう)が取り仕切るようになって行ったのです。

4)次男の良兼は父高望王の上総介の後を継ぎ上総、下総国に勢力を張って行きます。真壁などでもこの良兼は勢力を持っていたようです。

5)三男良将(よしまさ)(良持ともいう)はやはり源護の娘婿となり下総の勢力を拡大していきますが、子供の平将門がおこした乱で敗れたため、良将の正当な子孫はいなくなりました。(将門の子孫を名乗る相馬氏などはおりますが)

■ 千葉氏の祖「平良文」について

 高望王とその三人の子供(国香・良兼・良将)が上総にやってきて常陸・下総などで勢力を拡大していきましたが、もう一人高望王には重要な子供がおります。
それが平良文です。一般的には五男といわれています。良文は高望王の側室の子といわれ、高望王が上総・坂東にやって来た時はまだ幼かったこともあり一緒にはやってきませんでした。

しかし、この良文が後に坂東八平氏(秩父氏、上総氏、千葉氏、中村氏、三浦氏、鎌倉氏など)の祖となり、特に民俗的にも謎とされている千葉氏の祖とみなされています。

高望王の正室の三人の子供は将門の乱で戦をすることになりますが、良文は戦には加わっていないようです。

坂東(関東)には武蔵国村岡(埼玉県熊谷市村岡)に移り住み、村岡五郎(五男なので)と呼ばれるようになります。
その後相模国村岡(藤沢市)、下総国村岡(下妻市)や千葉県の東庄町や旧小見川町(香取市)にも住んでいたと言われるように多くの領地を得ています。

陸奥守であった良文は、鎮守府将軍に任じられ(939年)、胆沢城にも留まり陸奥国の平定にも力を注ぎます。

翌年940年に坂東に戻りその後の秩父、上総、三浦、鎌倉などに勢力を拡大していったようです。

千葉氏、三浦氏などもその後の歴史ではかなり重要な役割を担っています。

 ■ 将門の乱(承平の乱)

 平高望の子供たちはこのように関東各地へそれぞれ開墾なども行いながら勢力を拡大していきましたが、平高望の3男「良将」の子「平将門」が935年に反乱(承平の乱)を起こし、平氏同士の戦いが始まります。
この戦いで「国香」は殺され(自害)、常陸国府(現石岡市)は将門の3000人の兵に囲まれ、町を焼かれ、常陸介藤原維幾は降参し、国衙の印を奪われてしまいました。
この結果、関東一円を支配した将門は新皇を名乗り、茨城県岩井(現坂東市)に新しい国家を宣言して京の朝廷と対立してしまいます(939年)。
将門は生まれは関東で、幼少時代を過ごしますが、後に京の藤原北家にて世話になり、主従関係を結びます。
そして930年に京より関東の地に戻ってきました。
しかし、関東に残っていたと思っていた自分の土地は国香などが占拠しており、わずかな土地からの再出発となってしまいました。

しかしその後、将門は新たな土地を開拓し、そのたぐい稀な武力と精神力で勢力を拡大していきました。
しかしこの新たに手に入れた土地も「国香」や「源護(みなもとのまもる)」らに狙われ、争いになってしまいました。
やがて、関東平氏同士の争いとして935年に承平の乱が始まります。
しかし将門の武力は非常に強く、源護の3人の子供は殺され、国香も自害に追い込まれてしまいました。

源護の子供が殺されたため、姻戚関係にあった平良正(たいらのよしまさ)が将門追討に兵を挙げます。
しかし、将門の武力の前に破れ、兄の平良兼(国香の弟)に援助を要請し、平良兼(よしかね)は国香の子、平貞盛(さだもり)と共に将門の討伐に参戦します。

それでも将門は圧倒的に武力で勝っており、たちまち3人を追い込んでしまいました。
やっとのことで3人は都に逃げ込んで朝廷に将門の処罰を要請し、将門も都に呼び出されますが、将門は都にも協力者をもっており、恩赦もあり、許されて坂東に戻ることが出来ました。

しかし、良兼らは再び将門に戦を挑みますが、当初は全て負けてしまいます。
そしてついに939年11月に常陸国府(現石岡市)を約1000名の兵で襲い国府の印と鍵を奪い取ってしまいまた。
この時常陸国府は町中を焼かれてしまったのです。
(国府には3000名近い兵がいたのに、それ程将門は強かったのです。今でも国府では将門は敵です)。

また、その後、下野(しもつけ:栃木県)、上野(かみつけ:群馬県)の国府を占拠し、下総(しもふさ)国で「新皇」を宣言して、関東に新たな国を樹立してしまいました(939年12月)。
これにより完全に「朝敵」となった将門は、朝廷の援護を得た藤原秀郷・平貞盛連合軍4000で将門への攻撃がはじまり、940年2月流れ矢に当たり将門は39歳でこの世をさってしまいました。

■将門の首が空を飛んだ??

 将門の首は京の都へ運ばれ、東市(現:下京区四条新町)にさらされました。
この将門は当時の京の都では、富士山の噴火(932年、937年と噴火が続いた)などもあり、不吉な世を暗示するかのようで、大変恐れられていたため、その首の形相がものすごく、死してもまだ動いて噛み付いてくるようで近寄る人もほとんどいなかったといわれています。

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 都に曝された将門の首(『平将門退治図会』)

2月に戦死し、京にさらされたのが4月であったのに、その首は夜な夜な恨みの言葉を発したとも噂は尾ひれがついてまことしやかに囁かれていました。
そして、ついにその生首は故郷(坂東)を目指して空を飛んでいいって、途中力尽きて、江戸大手町に落ちたため、そこに首塚と将門を祀る神田明神が建てられたといわれています。
この首塚は、東京大手町の高層ビルにはさまれたところにあり、江戸時代には大老酒井雅楽頭の上屋敷がありました。
伊達騒動で原田甲斐が殺傷事件を起こした場所でもあります。

また将門の首塚は他にいくつか存在し、事実はどこにあるかは不明ですが、胴塚は坂東の地今の坂東市(旧岩井市)に存在します。
また坂東市では毎年、将門祭りが盛大に行われています。

ところで、当時(1000年以上前)の江戸(東京)はどのようになっていたのでしょうか。
徳川家康が江戸に幕府を作る前は、多くの川が現在の東京湾に注ぎ、湿地帯でまともな交通は出来なかったのではないでしょうか。
古道東海道は江戸は通らず、東京湾を舟で渡っていました。
また、武蔵の国は現在の府中市にあり、神田や大手町あたりはどんな状態にあったのでしょうか?

将門は江戸の庶民には人気が高く、将門の首塚は後から作られたものと考えるのは風情がないでしょうか。
しかし、神田明神のホームページによると、創建は730年ですが、将門塚周辺で天変地異が頻発し、それが将門公の御神威として人々を恐れさせたため、時宗の遊行僧・真教上人が手厚く御霊をお慰めして、さらに延慶2年(1309)に神田明神に奉祀されたと記されています。

■安倍晴明(陰陽師)

 将門は関東に独立国家を作って西の京に対抗したことから、後の江戸時代などでは英雄扱いされている面もありますが、これも、関東地方に勢力を拡大した平氏(武士)の勢力争いとみる方が自然でしょう。
また、この平安時代の後期には、京の都にて活躍した大陰陽師である「安倍晴明」が知られています。
京都一条戻橋には現在晴明を祀った「晴明神社」があり、今でも修学旅行などの観光名所となっていますが、この晴明の生まれについては様々な説が言われています。
晴明神社の由緒書きによれば、晴明は孝元帝の皇子大彦命の御後胤とされています。また安倍家の家系図によると、下級貴族安倍益材(あべのますき)の子として摂津国阿倍野(現・大阪市阿倍野区)に生まれたとされています。
その他、安倍のつく地名として奈良県桜井市安倍の生まれだとの説もあるようですが、関東でも茨城県明野町(現筑西市)に晴明が生まれた地であるとの言い伝えが存在します。

地元では「晴明神社」が存在し、「晴明橋公園」、「安倍晴明生誕の地」の石碑も立てられ、最近では地元温泉施設に「晴明の湯」と名づけられています。
まさにここは将門の伝説の地に近い場所でもあります。
晴明の生まれは西暦921年頃とされていますので、将門が殺された時は20歳前くらいでしょうか。
なにか将門とも関係があったのかもしれません。

もっとも晴明が亡くなったのは1005年であり、1000年以上前の話ですから、死後各地に将門と共に伝説となっていくつもの話ができていったのかも知れません。

▼ 上総・常陸国における源氏の流れ

1)陸奥国の安倍氏との争いが活発となり、1053年に鎮守府将軍に任じられた源頼家が息子(八幡太郎)義家を伴い欧州の清原氏と協力して安倍氏を滅ぼします。(前九年の役)

2)その後の後三年の役では陸奥国の覇者をねらう清原氏を倒すために源義家(八幡太郎)が陸奥守となりやってきます。
そこに義家の弟、(新羅三郎)源義光が戦闘に加わり(1087年)戦いに勝利します。

3)後三年の役が終わり、都に帰った源義光(新羅三郎)は常陸介に任じられて常陸国に再びやってきます。そして勢力を拡大していた平国香の子孫(大掾氏)から妻を迎えこの地での地位を築いていきます。

義光の嫡男源義業は常陸平氏の吉田清幹の娘を妻に迎えます。
そして源義業は妻の里である太田の地でこの勢力をもとに勢力拡大をはかります。
そして、これが戦国時代に常陸国を制した佐竹氏の祖となって行きます。

一方義光は次男の源義清(武田冠者と呼ばれる)とともに常陸国勝田付近の武田郷に住んでいたといわれるが、鹿島神宮領域の争いで常陸国を追放となり、源義清と共に甲斐国に移り住みます。これが甲斐武田氏の始まりといわれています。

まあこの頃は平氏も源氏婚姻関係では入り乱れていますので、系図をたどるとどこかで血縁関係が成立しています。

私は長男ではないのでこのような自分の系図を紐解いてみたいとは考えたことは無く、そのことにはあまり興味はわきません。
徳川家康は系図をねつ造して自分は源氏一門であると言って官位を得ており、将軍になるにもこの源氏一族ということですんなりと受け入れられたようです。

江戸時代になっても家臣まで皆、「源氏一族」だと自称するものがたくさん出てきましたので、笹竜胆の家紋も純粋な源氏とばかりは言えないでしょう。

話しが日の丸や源平合戦からはずれてきますので、一旦はこれでこのシリーズは終了します。



日の丸と源平合戦 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2016/12/26 19:26
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