大生古墳群(1)-鹿見塚古墳

 潮来市の北部、北浦沿いに元鹿島と呼ばれる「大生神社」があります。(前の記事は ⇒ こちら

ここは大和朝廷のタケカシマの種族オフ氏(多氏・飯富氏)が集落を作って住んでいたと思われ、茨城県としては最大級の古墳群(約110基)があります。

大生神社には数回来ていたのですが古墳がよくわからずに素通りしていました。
今回少し調べてやって来ました。

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「鹿見塚古墳」 前方後円墳 全長58.1m 茨城県指定史跡

通りからも見えるのに前には気が付かなかったのです。
それほど大きいものではありませんが、形は少し特徴的です。
古墳時代中期(5世紀頃)の築造とみられていますが、発掘調査はされていないようです。
古びた看板がありますがよく読めません。

茨城県教育委員会の説明では
「大生地方は、古くはオフ氏の根拠としたところで、大生神社を中心に一大文化圏をなしていたと思われます。
 この環境を背景として北浦に面する大生原台地には、110余基からなる古墳群が存在し、旧時の状態を良好にのこす古墳群として、また県下最大の規模を誇る古墳群として極めて貴重です。
 この鹿見塚古墳は、大生西部古墳群内に存在する盟主的な片耳式前方後円墳です。
 主軸は北西より東南に走り、全長約58m、前方部巾約32m、後円部直径約34m、同高さ約6mを有し、墳丘西側括部中央よりやや南に低い造出しを付設しています。
 さらに後円部がとくに高く突き出していることで特異な墳形をしています。 」
と書かれています。

この古墳の向きは鹿島神宮方向を向いているといわれています。


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東南方向に向いています。

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常陸国風土記では「昔、斯貴(しき)の瑞垣の宮に大八洲知ろし食しし天皇(崇神天皇)の御世に、東の国の荒ぶる賊を言向けんとして、建借間(たけかしま)命を遣はされた。建借間命は、軍を率ゐて賊を言向けつつ、安婆(あば)の島に宿を設けたとき・・・・」

と書かれており、潮来方面の賊を皆殺しにしたりした様子が書かれている。

この建借間命(タケカシマ)はその後水戸方面から那珂川をさかのぼり上流の地域を制圧していきました。
そしてその功績から初代仲国造(那珂)になったとみられています。

何処からどうやってこの地に攻め入ったのでしょうか。

風土記には「安婆島」にやってきてここから船で潮来に渡ってきています。
安婆島は現在大杉神社がある「阿波(あば)」に地名が残されていますが現在の浮島あたりでしょう。

ではこの浮島までの道は?

これは大和から陸路ではなく海路を通って九十九里浜の横芝光町あたりで上陸し、栗山川などを通ってやってきたように思われます。
(何処にも書かれたものがないので推論です)

海路があったことは確かで3世紀初め頃に四国の阿波から館山あたりにやってきた民族から「安房国」が始まっており、上総国国府の市原にある古墳はやはり古くて、3世紀初め頃のものがあります。

常陸国風土記ではこのタケカシマが賊をおびき出すために

「舟を連ね、筏を編み、衣張りの笠を雲と翻し、旗を虹と靡かせ、天の鳥琴・天の鳥笛は波の音と調べ合はせて潮と流し、杵島(き しま)ぶりの歌を七日七夜歌ひ踊って、遊び楽しんだ」

と書かれています。
杵島地方は今の佐賀県(旧肥後国)にある場所で、この近くに「鹿島市」があります。
タケカシマと鹿島の名前が一致していますのでかなりの関係性がありそうに思いますが、どのように関係してくるのかはよくわかりません。大変興味深いと思います。

茨城県の鹿嶋市は後からできたので島の漢字を「嶋」に変えていますが、鹿島神宮などは元のままです。

しかし常陸風土記では「香島」と表現されており鹿の字は使われていません。

さて、ではタケカシマが東国にやってきた時代はというと(10代)崇神天皇17年頃?ということのようですので、3世紀後半から4世紀にかけたあたりだと考えられます。(古事記や日本書紀などに書かれた年代とは当然ながら合いません)

ここの大生古墳群は5世紀頃からのものだそうですので、ここに住んでいたのオフ氏一族はタケカシマがやってきた時より100年以上後になるのでしょうか。

まわりの古墳ももう少し見ていきましょう。

潮来 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2016/12/28 06:46
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