大生古墳群(2)-子子舞塚古墳

 潮来市の北方の大生(おおう)地区に110余基あるといわれる大生古墳群。
その中で特徴的に知られるのは前回紹介した「鹿見塚古墳」とそのすぐ西側に隣り合っている「子子舞塚古墳」がある。

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この石碑には「古墳子子前塚」と彫られている。
舞ではなく前となっている。

子子舞塚と漢字で書かれても知らない人にはこれも読めない。

「子子」で「まご=孫」と読みます。
子供の子供は孫です。

では誰の孫なのでしょうか?
とても興味深いです。

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この古墳は前方部の一部を除いてほとんどが消滅してしまっている。
全長は71.5mくらいと考えられている。
隣りの鹿見塚古墳が58.1mというのでこちらの方が大きい。

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ここから 箱式石棺がでてきた。
中から人骨、玉類、耳環、直刀、鉄鏃、刀子などが出てきており、また埴輪類も見つかっている。
6世紀頃の築造と思われている。

この出土品の玉、環類などは近くの水郷県民の森のビジターセンターで展示されている。

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ここに住んだのはタケカシマの後の一族でオフ氏(多氏・飯富氏)の一族が住んだとみられている。
タケカシマは常陸風土記の記述で「杵島(き しま)の歌を七日七夜歌ひ」とあることから、杵島地方(佐賀県(旧肥後国))と思われるので、この九州の出身と考えられている。

西暦300年前後に肥後国から大和にやってきて、東国を平定するために船団を組んで海路を九十九里あたりにやってきたと思う。
この潮来地方を制圧してさらに北に進み、那珂川(旧粟川)をさかのぼっていった。

しかし、海岸寄りの日立方面には星の神カカセオ(香香背男)がいてタケカシマにも制圧できなかった。
そのため朝廷より「建葉槌(タケハツチ)命」が派遣された。

一方石岡地方などには古東海道を通って(?)「黒坂命」が派遣された。
遅れたのは行方地方だったようだ。

ここは後からヤマトタケルが制圧したと風土記などでは書かれている。

古東山道からは一番早く、第十代嵩神天皇の第一皇子「豊城入彦命」が東国にやってきたといわれている。
石岡の八郷地区にある「丸山古墳」はこの豊城入彦命の墓かもしれないとも言われている。
4世紀末頃の築造と思われている。

いずれにしても「大生」(おおう)というのも「多氏・飯富氏」などが「オオ」「オフ」などと言われ、「オオウ」となったと解釈すればすっきりする。

常総市の大生郷天満宮(菅原道真の遺骨があるといわれる)、の大生郷も同じ一族が住んだ場所なのかもしれない。

潮来 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2016/12/30 20:33
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