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沖洲の津

 息栖神社がいつごろ建てられたのかは知らない。
しかし最初は日川に建てられ、現在地に移されたのは、大同2年(806)と言われている。

昔の霞ケ浦や利根川、印旛沼などは皆一体となった大きな内海であった頃の話だ。

神社の名前も「於岐部説神社(おきつせじんじゃ)」と言われていたようだ。

3世紀から4世紀頃にまだ常陸の国は昔からの現地人が住んでいた。
ここに弥生人が攻め入った。

その時この地にやってきたタケミカヅチなどの武人は陸路ではなく海路を通って九十九里あたりにやってきたのだと考えている。
常陸国風土記を読むと古東海道を通って常陸の国にやってきたと思っていたが、鹿島神宮、香取神宮、息栖神社の東国三社がとりまとめられたのはやはり海洋の舟の製作や操作に優れた部族であったのではないかと感じるようになった。

九州の多氏などがどの程度の技術を持っていたのかはよくわからないが、この息栖神社もその舟の港として重要な位置にあったと思う。

香取も「梶取り」から名前が来ているように思われる。

息栖神社の入り口の赤い門の裏側に古びた碇(いかり)が置かれていて横に説明看板が置かれているがあまり読んでいく人は少ないようだ。


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この碇がいつごろの物かはわかっていない。
鉄製なのでかなり腐食も激しい。

この息栖の近くにあった寺にも南北朝時代の碇が置かれていたが、こちらの年代は書かれていない。

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この看板でも「おきすの津(港)」と書かれている。
昔の大きな内海もここでは香取の海と書かれているが、それぞれのところで川のように流れていることから地方の名前をとって○○の流れ海などともいう。

舟を進めるための拠り所となる港(津)の場所として重要で、肥沃で天候にも恵まれているこの常世の国(常陸の国)を攻め入るベースキャンプ的な港の守り神として祀られたものと言っていいと思う。

芭蕉は、この地を
「この里は 気吹戸主(いぶきとぬし)の 風寒し」
と詠んだ。

すべての穢れを洗い流して新しく生まれ変わることができる場所なのかもしれない。

そんなことを考え、今年も気持ちを新たにしていきたい。

神栖 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2017/01/08 21:52
コメント
日川
遅ればせながら、あけましておめでとうございます。

息栖神社の件、ロマンあふるる話ですね。改めて地図の上で見ると日川というのは現在の位置より下流で、鹿島神宮と香取神宮の三点で考えると正三角形に近い。もっと俯瞰すると、今でもいく筋もの流れがあの地域を流れており、昔の海の名残りを感じます。今度自転車で行って参拝して見ます。我が家からは、ちょっと遠いですけどね。
kincyanさん
本年もよろしくお願いします。
早速にコメントうれしいです。

> 息栖神社の件、ロマンあふるる話ですね。改めて地図の上で見ると日川というのは現在の位置より下流で、鹿島神宮と香取神宮の三点で考えると正三角形に近い。もっと俯瞰すると、今でもいく筋もの流れがあの地域を流れており、昔の海の名残りを感じます。今度自転車で行って参拝して見ます。我が家からは、ちょっと遠いですけどね。

この神社を東国三社として訪れたいと思ってこられた方がたくさんおられますが、きっと神宮2社に比べて社殿はコンクリート製になってしまっており昔をしのぶものも少ないですので少しがっかりされるようです。
でもよく観ていくと昔をしのぶものも多いです。以外に気がつかないのだと思います。
日川という地域もかなり広くてどの辺りかがわかりにくいのですが、常陸国三蚕神社といわれる「蚕霊神社」には息栖の元宮ということを言う人もいます。(蚕霊山)星福寺などと合わせて一度お訪ねください。
ただし神栖の大通りはあまり何も無いところには違いありません。


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