三昧塚古墳(2)
昨日の三昧塚(さんまいつか)古墳記事の続きです。
この古墳は石岡の舟塚山古墳と水戸の愛宕山古墳と並んで茨城県では有名な古墳です。
少しデータを並べてみましょう。
舟塚山古墳(石岡市):全長186m 5世紀中葉? 茨城国造 筑紫刀禰(つくしとね)の墓か?
愛宕山古墳(水戸市):全長136.5m 5世紀初頭 仲国国造 建借間命(たけかしまのみこと)の墓か?
三昧塚古墳(行方市):全長88.2m 5世紀後半 この地方の若き豪族の長の墓か?
と他の2つと比べると大きさも築造時期もいささか平凡な古墳です。
しかし、この古墳は考古学上大変貴重な古墳と言われています。
それは、この古墳からの出土品です。
舟塚山古墳:
円筒埴輪が出土し、まわりの円墳などからは甲、直刀、楯などが出土。
すでに盗堀された形跡もあり、この古墳からも刀などが出土したという伝承がある。
愛宕山古墳:
大形の円筒埴輪が発見されたことから、3~4列に及ぶ埴輪列が存することが推定されている。
と他の多くの古墳が刀や王冠などがすでに盗堀されてしまったと思われているのに対し、この古墳からはほぼ完ぺきなかたちで出土しているからです。
三昧塚古墳の後円部の上に説明の石板が置かれています。


古墳の墳丘には円筒埴輪が三重にめぐらされ、この後円墳上から深さ2.7mのところから箱式石棺が発見されました。
この石棺内の大きさは長さ196cmx幅56cm、深さ35cmで真ん中に成人男子(20歳くらいか?、40歳くらいという記述もあった)の遺体が真っ直ぐに足を延ばした形でおかれており、まわりには数々の装飾品が置かれていました。
両脇には「太刀」や「剣」がおかれ、首部から胸のあたりには「玉類」が、頭の上には「金銅製馬形飾付冠」が置かれ頭部の右に「青銅製飾金具」、左上に「変形神獣鏡」などが置かれていました。

(金銅製馬形飾付冠:茨城県歴史館所蔵)
特にこの古墳を有名にしているのがこの「金銅製馬形飾付冠」です。
冠の上には「馬の飾り」(左右4頭ずつ計8頭)が飾られています。
長さは約60cm(径20cm)、高さ9.4cmで正面には蝶形金具を持ち「二つ山形式」 と呼ばれるものです。

(茨城県立歴史館の再製レプリカ(復元品))
またこの冠は「歩搖(歩くと揺れる)付王冠」ともいわれるもので、歩搖=歩くと揺れる というものです。
この歩搖付王冠は騎馬民族の4~5世紀頃の各地で発見されているものに特徴がよく似ています。
日本では九州や、関西圏で発見されていますが、東国ではこの三昧塚古墳だけだと思います。
またアフガン出土の王冠に良く似ているそうです。
このような騎馬民族の移動の流れを見ていると、むかし、大和朝廷成立時に関し、「騎馬民族征服王朝説」が話題になったことを思い出させます。
私も昔読んだことがありますが、東北ユーラシア系の騎馬民族が、南朝鮮を支配し、やがて日本列島にやってきて、4世紀後半から5世紀に大和地方の在来の王朝を支配またはそれと合作して大和朝廷を立てたというものです。
しかし、この説もいつの間にかあまり語られなくなりました。
この三昧塚古墳の冠は中央正面に蝶形金具があり、これは他の国では見られない日本独特のもののようです。
邪馬台国は九州説や大和説などの論争はまだ続いていますが、2~3世紀の話です。
魏志倭人伝(三国志)には牛馬がいないと記載されているといいますし、実際にもそれまでは牛馬は家畜用としてはいないと考えられています。
それがいつの間に馬や牛がたくさん登場してくるのでしょうか。
常陸国風土記(8世紀始め)でも「行方の馬」として、この地方を馬の産地として紹介しています。
「椎、栗、槻、檪が繁り、猪や猿が住んでゐる。野に住む馬は乗馬用になる。
飛鳥の浄御原(きよみ はら)の大宮に天の下知ろし食しし天皇(天武天皇)の御世に、郡の大生の里の建部(たけるべ)のをころの命が、この野の馬を朝廷に献上した。以来、「行方の馬」と呼ばれた。「茨城の里の馬」といふのはまちがひである。」(口訳・常陸国風土記より)
大生は潮来の方ですので行方の東端にあり、こちらは同じ行方でも西端ですが、こちらの地方の馬はきっと有名だったのでしょう。
前に、香取市にある「側高神社」(そばたかじんじゃ)に残されている言い伝えで、
「側高神が香取神の命で、陸奥の馬を二千匹捕まえて霞ヶ浦(香取海)の浮島まで戻ってきたところ、陸奥の神が追跡してきたという。そこで側高神は浦を千潮にして馬を下総に渡らせ、続いて満潮にして陸奥神が渡れないようにした。」
ということを紹介したことがあります。
この陸奥の馬というのはまだ当時は常陸国は陸奥と見られていたときの話でしょうから「行方の馬」だったのかもしれません。
常陸国にやってきた大和朝廷の人々は海からのルートでは九州の民族(九州から大和に移動した?)でした。
こうして考えると行方はもともと馬がいたということが考えられそうです。
簡単に馬を船で運ぶのは難しかったと思われます。
特に朝鮮半島を経由したりして大量に運ばれたとは思われないのです。
ただ、縄文時代から馬の骨なども見つかっているようですから、家畜としてではなく存在はしていたようです。
大きさもかなり小さい「野馬」でしょう。
戦国時代でも今の時代劇に出てくるような馬はいなかったのではないかと思います。
もっと小さな馬に乗っていたと思われます。
こんな古墳でもいろいろと古代への想いが膨らみます。
この古墳は石岡の舟塚山古墳と水戸の愛宕山古墳と並んで茨城県では有名な古墳です。
少しデータを並べてみましょう。
舟塚山古墳(石岡市):全長186m 5世紀中葉? 茨城国造 筑紫刀禰(つくしとね)の墓か?
愛宕山古墳(水戸市):全長136.5m 5世紀初頭 仲国国造 建借間命(たけかしまのみこと)の墓か?
三昧塚古墳(行方市):全長88.2m 5世紀後半 この地方の若き豪族の長の墓か?
と他の2つと比べると大きさも築造時期もいささか平凡な古墳です。
しかし、この古墳は考古学上大変貴重な古墳と言われています。
それは、この古墳からの出土品です。
舟塚山古墳:
円筒埴輪が出土し、まわりの円墳などからは甲、直刀、楯などが出土。
すでに盗堀された形跡もあり、この古墳からも刀などが出土したという伝承がある。
愛宕山古墳:
大形の円筒埴輪が発見されたことから、3~4列に及ぶ埴輪列が存することが推定されている。
と他の多くの古墳が刀や王冠などがすでに盗堀されてしまったと思われているのに対し、この古墳からはほぼ完ぺきなかたちで出土しているからです。
三昧塚古墳の後円部の上に説明の石板が置かれています。


古墳の墳丘には円筒埴輪が三重にめぐらされ、この後円墳上から深さ2.7mのところから箱式石棺が発見されました。
この石棺内の大きさは長さ196cmx幅56cm、深さ35cmで真ん中に成人男子(20歳くらいか?、40歳くらいという記述もあった)の遺体が真っ直ぐに足を延ばした形でおかれており、まわりには数々の装飾品が置かれていました。
両脇には「太刀」や「剣」がおかれ、首部から胸のあたりには「玉類」が、頭の上には「金銅製馬形飾付冠」が置かれ頭部の右に「青銅製飾金具」、左上に「変形神獣鏡」などが置かれていました。

(金銅製馬形飾付冠:茨城県歴史館所蔵)
特にこの古墳を有名にしているのがこの「金銅製馬形飾付冠」です。
冠の上には「馬の飾り」(左右4頭ずつ計8頭)が飾られています。
長さは約60cm(径20cm)、高さ9.4cmで正面には蝶形金具を持ち「二つ山形式」 と呼ばれるものです。

(茨城県立歴史館の再製レプリカ(復元品))
またこの冠は「歩搖(歩くと揺れる)付王冠」ともいわれるもので、歩搖=歩くと揺れる というものです。
この歩搖付王冠は騎馬民族の4~5世紀頃の各地で発見されているものに特徴がよく似ています。
日本では九州や、関西圏で発見されていますが、東国ではこの三昧塚古墳だけだと思います。
またアフガン出土の王冠に良く似ているそうです。
このような騎馬民族の移動の流れを見ていると、むかし、大和朝廷成立時に関し、「騎馬民族征服王朝説」が話題になったことを思い出させます。
私も昔読んだことがありますが、東北ユーラシア系の騎馬民族が、南朝鮮を支配し、やがて日本列島にやってきて、4世紀後半から5世紀に大和地方の在来の王朝を支配またはそれと合作して大和朝廷を立てたというものです。
しかし、この説もいつの間にかあまり語られなくなりました。
この三昧塚古墳の冠は中央正面に蝶形金具があり、これは他の国では見られない日本独特のもののようです。
邪馬台国は九州説や大和説などの論争はまだ続いていますが、2~3世紀の話です。
魏志倭人伝(三国志)には牛馬がいないと記載されているといいますし、実際にもそれまでは牛馬は家畜用としてはいないと考えられています。
それがいつの間に馬や牛がたくさん登場してくるのでしょうか。
常陸国風土記(8世紀始め)でも「行方の馬」として、この地方を馬の産地として紹介しています。
「椎、栗、槻、檪が繁り、猪や猿が住んでゐる。野に住む馬は乗馬用になる。
飛鳥の浄御原(きよみ はら)の大宮に天の下知ろし食しし天皇(天武天皇)の御世に、郡の大生の里の建部(たけるべ)のをころの命が、この野の馬を朝廷に献上した。以来、「行方の馬」と呼ばれた。「茨城の里の馬」といふのはまちがひである。」(口訳・常陸国風土記より)
大生は潮来の方ですので行方の東端にあり、こちらは同じ行方でも西端ですが、こちらの地方の馬はきっと有名だったのでしょう。
前に、香取市にある「側高神社」(そばたかじんじゃ)に残されている言い伝えで、
「側高神が香取神の命で、陸奥の馬を二千匹捕まえて霞ヶ浦(香取海)の浮島まで戻ってきたところ、陸奥の神が追跡してきたという。そこで側高神は浦を千潮にして馬を下総に渡らせ、続いて満潮にして陸奥神が渡れないようにした。」
ということを紹介したことがあります。
この陸奥の馬というのはまだ当時は常陸国は陸奥と見られていたときの話でしょうから「行方の馬」だったのかもしれません。
常陸国にやってきた大和朝廷の人々は海からのルートでは九州の民族(九州から大和に移動した?)でした。
こうして考えると行方はもともと馬がいたということが考えられそうです。
簡単に馬を船で運ぶのは難しかったと思われます。
特に朝鮮半島を経由したりして大量に運ばれたとは思われないのです。
ただ、縄文時代から馬の骨なども見つかっているようですから、家畜としてではなく存在はしていたようです。
大きさもかなり小さい「野馬」でしょう。
戦国時代でも今の時代劇に出てくるような馬はいなかったのではないかと思います。
もっと小さな馬に乗っていたと思われます。
こんな古墳でもいろいろと古代への想いが膨らみます。
野馬がいたのでしょうけれど、昔の大陸と繋がっていた時代は大陸系の馬も入ってきていたのでしょう。これはおもしろい点です。
そうなんですね。地名で知っていてもすぐに思いつきませんでした。
野馬は千葉(房国)にも常陸にもいたようです。5~6世紀頃にこの馬が軍事用にも買われるようになったように思います。
舟で運ぶのは大量には無理だったように思います。
結構暴れると手が負えないようでした。
この馬の広がりを調べてみたら何か出てきそうですね。
コメントありがとうございました。