息栖神社と蚕霊神社(3)
息栖神社は西暦806年に約5~6km離れた日川地区から今の位置に遷座されたと記載されています。
息栖神社入り口に平成20年に建てられた石碑に遷座のいきさつが書かれていましたので、文字にしておきましょう。
「息栖神社の創紀は応神天皇の御代と伝承されているが、御祭神の御神格からして鹿嶋・香取の神を御案内されて東国に至り鹿嶋・香取の神神は、それぞれ台地上に鎮座され、岐神(くなどのかみ)も同じく 神世の時代に海辺の湊(日川)に鎮座され応神天王の御代に祠に祀られたものと推察するのが自然であると思われる。大同二年平城天皇(第15代・806年)の勅命により右大臣藤原内麻呂に依り沖栖の清地に遷座されたと伝承されている。御遷座理由としては、延歴18年8月に鹿島・那珂。久慈・多珂の4郡に前代未聞の大津波があったことが茨城県史年表にも記録があり、当地区は海に囲まれていた地形の為に被害が大きかったことが想像される。・・・・・・・・・・・・・・」
と書かれている。
応神天皇の御代の創建というので、5世紀初め頃ということになりそうですが、香取の海の中州に船を停める湊を設置し、その近く日川地区に悪霊の侵入を妨げる岐神を祀る祠をたてたのでしょうか。
ではこの日川の元の位置はどのあたりかと考えると、このあたりは山も森もなく、昔は中洲の島のようなところであったので候補となる場所も限られており、「蚕霊神社」がその継承地と考えられそうだ。
また実際にそのようにも言われているとも聞いた。

常陸国三蚕神社については昔書いたことがあります。
その中の一つ「蚕霊神社(さんれい)」がその昔「於岐都説神社(おきつせじんじゃ)」と呼ばれていたようです。
日本三代実録(安時代の清和天皇、陽成天皇、光孝天皇の3代である天安2年(858年)8月 から仁和3年(887年)8月までの30年間を記した歴史書)には仁和元年(885年)に「於岐都説神」が正六位上から従五位下に叙されたという記録が残されていて、これが息栖神社のことだと解されています。
しかし、常陸国三蚕神社のもう一つの日立市にある「蚕養神社(こがいじんじゃ)」についても、昔は於岐都説神社と言われており、この息栖神社から分霊を受けているようでした。

蚕霊神社はこのように朱色で塗られています。


江戸時代に常陸国三蚕神社から全国に養蚕が広められました。
特にこの蚕霊神社から広められた神社は蚕霊神社という名前ではなく「衣笠神社」「絹笠神社」「衣襲(きぬがさ)神社」などと呼ばれているようです。
江戸時代に「衣襲明神」(桑の木を手にもつ女神)が馬に乗り各地に広めていったという図式の絵が数多く描かれています。

この神社と一体であった寺が近くにあります。

この寺の正式な名称は「真言宗智山派蚕霊山千手院星福 寺」といいます。

真言宗智山派の寺院の中には江戸時代には、この「お蚕様」=衣襲明神(きぬがさみょうじん)を本尊として祀っていたところも結構あったようです。
それだけ盛んに養蚕が行われたのでしょう。
ただ、息栖神社と養蚕神社との関係はよくわかりませんでした。
まだ一歩考察が足りないのでしょう。
そのうちに何かわかるかもしれません。

この星福寺から常陸利根川の川岸までそれほど離れていません。
まっすぐ進むとモータープールがありました。





息栖神社入り口に平成20年に建てられた石碑に遷座のいきさつが書かれていましたので、文字にしておきましょう。
「息栖神社の創紀は応神天皇の御代と伝承されているが、御祭神の御神格からして鹿嶋・香取の神を御案内されて東国に至り鹿嶋・香取の神神は、それぞれ台地上に鎮座され、岐神(くなどのかみ)も同じく 神世の時代に海辺の湊(日川)に鎮座され応神天王の御代に祠に祀られたものと推察するのが自然であると思われる。大同二年平城天皇(第15代・806年)の勅命により右大臣藤原内麻呂に依り沖栖の清地に遷座されたと伝承されている。御遷座理由としては、延歴18年8月に鹿島・那珂。久慈・多珂の4郡に前代未聞の大津波があったことが茨城県史年表にも記録があり、当地区は海に囲まれていた地形の為に被害が大きかったことが想像される。・・・・・・・・・・・・・・」
と書かれている。
応神天皇の御代の創建というので、5世紀初め頃ということになりそうですが、香取の海の中州に船を停める湊を設置し、その近く日川地区に悪霊の侵入を妨げる岐神を祀る祠をたてたのでしょうか。
ではこの日川の元の位置はどのあたりかと考えると、このあたりは山も森もなく、昔は中洲の島のようなところであったので候補となる場所も限られており、「蚕霊神社」がその継承地と考えられそうだ。
また実際にそのようにも言われているとも聞いた。

常陸国三蚕神社については昔書いたことがあります。
その中の一つ「蚕霊神社(さんれい)」がその昔「於岐都説神社(おきつせじんじゃ)」と呼ばれていたようです。
日本三代実録(安時代の清和天皇、陽成天皇、光孝天皇の3代である天安2年(858年)8月 から仁和3年(887年)8月までの30年間を記した歴史書)には仁和元年(885年)に「於岐都説神」が正六位上から従五位下に叙されたという記録が残されていて、これが息栖神社のことだと解されています。
しかし、常陸国三蚕神社のもう一つの日立市にある「蚕養神社(こがいじんじゃ)」についても、昔は於岐都説神社と言われており、この息栖神社から分霊を受けているようでした。

蚕霊神社はこのように朱色で塗られています。


江戸時代に常陸国三蚕神社から全国に養蚕が広められました。
特にこの蚕霊神社から広められた神社は蚕霊神社という名前ではなく「衣笠神社」「絹笠神社」「衣襲(きぬがさ)神社」などと呼ばれているようです。
江戸時代に「衣襲明神」(桑の木を手にもつ女神)が馬に乗り各地に広めていったという図式の絵が数多く描かれています。

この神社と一体であった寺が近くにあります。

この寺の正式な名称は「真言宗智山派蚕霊山千手院星福 寺」といいます。

真言宗智山派の寺院の中には江戸時代には、この「お蚕様」=衣襲明神(きぬがさみょうじん)を本尊として祀っていたところも結構あったようです。
それだけ盛んに養蚕が行われたのでしょう。
ただ、息栖神社と養蚕神社との関係はよくわかりませんでした。
まだ一歩考察が足りないのでしょう。
そのうちに何かわかるかもしれません。

この星福寺から常陸利根川の川岸までそれほど離れていません。
まっすぐ進むとモータープールがありました。





こんにちは。
期待したほどの成果はきっと感じないかもしれませんが、話の種に1度行って見てください。
やはり神栖は何も無い?? と感じるかもしれないところです。
道路も拡張され、鹿島工業地帯の入り口といったところでしょう。
食べるところはあまり知りません。だいぶ先に行った波崎に近い町中に銚子のうまいもん会に入っている「花寿司」(http://www.hana-zushi.com/)という料理屋さんがありますが、そこくらいしかいったことがないんです。
通り沿いにはいろいろな店が並んでいますがいつも素通りです。(餃子の王将など・・・)
きっと橋を渡って小見川や笹川のほうがおいしいものはありそうに思います。
そちらのブログ拝見しました。
ずいぶん距離を走られたのですね。
今度そちらの行ったところへも行ってみたいと思います。